2013/12/31

2013年の秋学期を完走したこと

 選択科目だけで構成される2年目の秋学期は、人によってはいちばん負担の少ないセメスターだ。ここを先途と旅行しまくる輩もいれば、GSI(Graduate Student Instructorの略で、UCバークレーにおけるティーチング・アシスタントの名称)をして学費を稼ぐ輩もいる。実にいろいろなものである。

 しかし私には、今学期は最も苦しい学期であった。たとえて言うなら、走り込みが不足したまま出場してしまったフルマラソン・レースのようなものである。10kmあたりで危機感が芽生え、20kmあたりで足運びが重くなり、30kmあたりからはもう地獄であった。
 その理由は何か。2点だけ挙げるなら、

1. 授業を必要以上に取りすぎたから。
2. 赤ン坊の夜泣きがひどかったから。

ということになる。

 前者について、学期の当初は後述する5授業のほか、興味のおもむくままに「行動経済学」「技術とイノベーションの経済学」「第二次世界大戦以降の世界史」の合計8授業を取っていたのだが、さすがに無理があり、早々に破綻した。曜日によっては1日14時間も授業があって、まあ落ち着いて考えれば破綻しない方がおかしいのだが、しかしアホというのは落ち着いて考えることができないからアホなのである。

 後者について、私の赤ン坊はかなり手のかかる赤ン坊で、夜半は約2時間おきに目覚め、天地が張り裂けるような泣き声を上げるのであった。意識朦朧としながら30分ほど抱っこして、ようやく寝息が聞こえてきて、慎重に、この上なく慎重に布団に置いた途端、何かのスイッチが入ったようにギャン泣きされたときの絶望感。人生に新たなコクが加わった。
(奥さんのコメント: まあ実際に寝かしつけてたのはほとんど私なんですけどね。困りましたね)





<中国語 (Elementary Chinese)>
 選択科目。週5.5時間。本授業については以前の記事で紹介したとおりだが、その後も千本ノックに耐え抜き、意外にも好成績でゴールテープを切ることができた。「できないことができるようになった」という意味では、今学期で最も達成感のある授業であった。
 どの程度まで上達したかを示すために、ダイアローグ暗唱の宿題で私が作文したものを以下に載せる。中国語の分かる方は表現の未熟さをお笑いいただき、お分かりにならない方も「どことなく意味が通じる感じ」をお楽しみいただければ幸いである。

---
A: 寒假要到了,你们要做什么?
B: 我只想看书,买衣服,复习中文课。我没有特别的事情。
C: 我要去韩国。我每年都回家。
A: 太好了!我觉得韩国菜挺好吃。你怎么去机场?
C: 我想坐地铁或者开车。你知道怎么走吗?
A: 虽然我不知道高速公路,但是我可以告诉你坐地铁。你先坐红线,再换黄线。我觉得不麻烦。懂不懂?
C: 懂。谢谢!
A: 别客气。
B: 如果你要的话,我就开车送你去吧。
赵慧玲: 是吗?谢谢你。
B: 不用客气。飞机票你买了吗?
C: 已经买了。不过,我要换它。
B: 为什么?
C: 因为我买错了。今天下午我要去一个商店。
B: 你到韩国的时候,给我们发短信。再见!
A, C: 再见!

(at the ticket shop)
D: 小姐,您要买什么票?
C: 对不起,我昨天买了这个票,可是这日期是错的。能不能换一个?
D: 对不起,我们只能换十二月二十日的票。不过,这个的价钱跟你的一样,您不用再付钱了。好吗?
C: 没问题。谢谢!
D: 别客气。
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中国語のサイトを閲覧するようになったら、Googleの広告も中国語になった。「人生苦短」という、出会い系サイトにしては暗めの惹句が独自の味わいを醸している。


<費用便益分析 (Benefit-Cost Analysis)>
 週4時間(グループワークを加えると実質的には週10時間以上)。選択科目だが、定量分析で名声の高いGSPPにおいて費用便益分析は必修に近いと思っていたので、今学期最も履修したかった授業である。
 費用便益分析とは、プロジェクトがもたらす影響を「費用」と「便益」に分けて、その多寡を評価するプロセスのことである。と、これだけの説明だと各項目を金銭価値に換算するだけの簡単なプロセスのように思われるが(実際私もそう思っていたのだが)、これがなかなかどうして奥が深く、少なくとも統計学とミクロ経済学の知識は必須である。
 クラスでは、Primary & Secondary Markets, Social Discount Rate, Horizon Value, Monte Carlo Simulation, Sensitivity Analysisなどの理論と実践を学ぶが、本授業のハイライトはむしろ学期全体を通じたグループワークだ。分析テーマは完全に自由、3~4人のチームを組んで最終的に政策提言をまとめるというあたりは、前学期の必修科目「政策分析入門」と似ている。膨大な作業量も含めて。
 ここで先輩やクラスメートのテーマ例を挙げると、

・ベイエリア(サンフランシスコ周辺地域)にガソリン税を導入したときの費用&便益

・H-1Bビザ(専門職の就労ビザ)の料金を値上げ/値下げしたときの費用&便益

・ハワイ州の公立学校に教育用ノートPC/タブレットを配布したときの費用&便益

・フェニックス(アリゾナ州の州都)の低所得者向けに太陽光発電設置補助金を導入したときの費用&便益

・ウランバートル住民に高効率クックストーブを配布したときの費用&便益

・ケニアでメンタルヘルス向けバウチャーを導入したときの費用&便益

といった具合に、公共政策学の所掌の広さを再認識できる多様ぶりである。
 これは来学期の修士論文(Advanced Policy Analysis)についても言えることだが、先輩方が執筆したペーパーを参照していると、優秀なものはそのまま市場に出しても十分通用しそうな(1,000万円くらいの委託契約の成果物としても通用しそうな)レベルである。GSPPというのはやはり大したものなんだと改めて実感した。

 さて、私のグループのテーマは、

・中国でコジェネレーション(CHP: Combined Heat and Power)対象の固定価格買取制度(FIT: Feed-in Tariff)を導入したときの費用&便益

というものであった。
 これは、コジェネレーション(以下、CHP)推しの中国人のクラスメートと、固定価格買取制度(以下、FIT)推しの私とのある種の折衷案として生み出されたものであるが、両者の難所を斟酌せずにそのまま合体させてしまったのはいささか無謀で、いわば初めてプレイするゲームの難易度をいきなり「VERY HARD」に設定したようなものであった。

 難所1。中国の統計資料が絶対的に少ない。中国語でしか読めない資料もたくさんある。
 難所2。FITの経済効果を分析した論文が少ない。特に、買取価格と電力量の関係について考察したものはほとんど皆無に近い。
 難所3。中国政府はCHP対象のFITを導入していないので、拠って立つ前例が存在しない。

 どうだろう。なかなかの「VERY HARD」っぷりではないだろうか。逆に言うと、中国のCHP政策についてこうした切り口で分析したペーパーは(少なくとも私の知る限り)世界のどこにもないわけだから、その「切り開いている」感はかなりのものであった。


固定価格買取制度(FIT)とは、ある特定の電力(多くは再生可能エネルギーによるもの)に対して、通常の電気料金より高い買取価格(Tariff)を設定し、一般家庭や事業者が発電したものを電力会社に売れるようにする仕組みのこと。REN21(Renewable Energy Policy Network for the 21st Century)によれば、2013年時点で71ヶ国がこの制度を採用しているという。日本でも2012年に実施され、ソフトバンクや日本製紙などが参加を表明している。
図の出所:資源エネルギー庁「再生可能エネルギーの固定価格買取制度について」(2012年)

コジェネレーション(CHP)とは、熱源(多くは排熱)から電力と熱を同時に供給するシステムのこと。化石燃料を使うケースが多いため再生可能エネルギーのカテゴリからは外れるが、そのエネルギー利用効率の高さから次世代のエネルギーとして注目されている。
表の出所:米国エネルギー省「Combined Heat and Power: A Clean Energy Solution」(2012年)を基に筆者作成


 英文にして5万字近い分量の最終報告書を短く要約するのは至難のわざだが、ここに100字以内での説明を試みよう。

【ステップ1】 買取価格を「x」としたときの総発電量を、xの関数「y=f(x)」で表す。
 具体的には、まず国内産業セクターの排熱量のうちCHPに利用可能な総量を推定し、その温度ごとに効率性が(ということはCHPのLevelized Costが)異なることに着目して、単回帰モデルを組み立てた。

 おっと、早くも125字を使ってしまった。やっぱり100字以内というのは無理がありましたね。すみません。
 でも懲りずに続けると、

【ステップ2】 費用&便益の各項目を、yの関数(ということはxの関数)で表す。
 費用の一例として、課税によって生じる死荷重(Deadweight Loss)。
 便益の一例として、二酸化炭素やPM10などの削減効果。

【ステップ3】 「便益の現在価値の総和」から「費用の現在価値の総和」を引いた値(Net Benefit)が、どの買取価格(x)で最大になるかを求める。
 「Net Benefitは買取価格が0.50人民元/kWh(≒8.63円/kWh)のとき最大になる」というのが本分析の結論(ちなみに中国の太陽光発電向けFITの価格は0.90~1.00人民元/kWh)。加えて、試算に用いた各パラメータ(例:二酸化炭素1トンあたりの金銭的価値)の変動が全体に与える影響について、Monte Carlo Simulationなどを用いて評価した。

ということになる。専門用語がちらほら混じって申し訳ないけど、おおよその雰囲気だけでも感じ取っていただけたら嬉しい。願わくば、費用便益分析の面白さについても。
 
 本授業の担当は、GSPPの若手エースとも評すべきDan Acland教授。昨年の秋学期に受講したミクロ経済学でもそうだったが、親切心と熱意を兼ね備え、生徒の評価も非常に高い。教科書は、この分野では名高いAnthony E.Boardmanの「Cost-Benefit Analysis: Concepts and Practice 4th ed」を使用した。全体を通じて今学期で最も負荷の高い授業だったが、最もスキルを学んだ授業でもあった。



<開発経済学 (International Economic Development Policy)>
 選択科目。週2時間。開発経済学の初学者がキャッチアップするには最良のカリキュラムで、具体的には、貧困ギャップ率、ジニ係数とローレンツ曲線、コースの定理、貿易産業政策、国際通貨政策、ランダム化比較試験(RCT: Randomized Controlled Trial)、傾向スコアマッチング(PSM: Propensity Score Matching)、インデックス保険、マイクロファイナンス、条件付き現金給付(CCT: Conditional Cash Transfer)といった項目について学んだ。
 農業資源経済学部とGSPPの合同授業であるため、前学期で苦労して習得した計量経済学の知識をそのまま活用できるのは喜びであった(統計ソフトSTATAを使ったグループワークも3回あり、お腹がいっぱいになった)。というか、開発経済学って計量経済学を最も駆使する分野のひとつだったんですね。たとえば、「Aの村にはワクチンを配布するけど、Bの村には配布しない。数年後、双方の村人たちには統計的に有意な差が見られるか?」みたいな趣旨の研究がたくさんあって、「それって倫理的にどうなの?」と思わないでもないけれど、開発経済学というのはそういう社会実験ができる余地の大きい分野なのだろう。良きにしろ悪しきにしろ。

 本授業の担当はAlain de Janvry教授。講義中にときどき英語を失念してしまう、この飄然たる老教授を私はこよなく愛する者である。個人的には、古今亭志ん生、笠智衆と並んで「思い浮かべるだけで心が和む三大おじいちゃん」の一角を占めることになった。
 テキストはAlain教授のお手製のものだが、全6回の政策メモの課題を通じて内容把握が要求される書籍は以下のとおり。開発学に造詣の深い読者(結構いらっしゃると思う)であれば、このリストを見て何かしら感ずるものがあることだろう。

Abhijit Banerjee, Esther Duflo 「Poor Economics: A Radical Rethinking of the Way to Fight Global Poverty」
Joseph Stiglitz 「The Price of Inequality: How Today's Divided Society Endangers Our Future」
Dani Rodrik 「One Economics, Many Recipes: Globalization, Institutions, and Economic Growth」
Muhammad Yunus 「Creating a World Without Poverty: Social Business and the Future of Capitalism」
C. K. Prahalad 「The Fortune at the Bottom of the Pyramid, Revised and Updated 5th Anniversary Edition: Eradicating Poverty Through Profits」
Aneel Karnani 「Fighting Poverty Together: Rethinking Strategies for Business, Governments, and Civil Society to Reduce Poverty」
Angus Deaton 「The Great Escape: Health, Wealth, and the Origins of Inequality」
Amartya Sen, Jean Dreze 「An Uncertain Glory: India and its Contradictions」
Jagdish Bhagwati, Arvind Panagariya 「Why Growth Matters: How Economic Growth in India Reduced Poverty and the Lessons for Other Developing Countries」



<気候変動、エネルギーと開発学のセミナー (Climate, Energy and Development)>
 選択科目。週3時間。標題のとおり、開発学とエネルギーがクロスオーバーする領域に関するケース・スタディを幅広く扱うもので(例:コンゴ民主共和国の巨大ダム、バングラデシュの小水力発電、ケニアのバイオ燃料、インドネシアのパーム油、ブータンのスマート・グリッド)、前学期のモザンビーク・プロジェクトを通じて再生可能エネルギーが途上国に与えるインパクトの大きさを学んだ私にとって、最高にハマる授業であった。

 いま「再生可能エネルギーが途上国に与えるインパクトの大きさ」と書いたが、本授業を経てその印象はいよいよ深まった。むしろ、「再生可能エネルギーがその真価を発揮するのは途上国である」と言った方が表現としては正確かもしれない。
 というのは、途上国の抱える最もラディカルな問題のひとつは「電気が通っていない」ことなのですね。電気がなければ、当たり前だけどまず電灯が使えないし(そうすると利用者に呼吸器系疾患をもたらすケロシンランプなどを使わざるを得ない)、ラジオもテレビも携帯電話もダメだし(つまり外部からの情報を得られない)、簡易タブレットを配布して子どもの教育に役立てるなんてこともできない。八方手詰まりなのである。

 そうした状況を打開するため、つまり人々に電気を届けるため、かつては火力発電や大型水力発電などの集中型電源(Centralized Generation)に頼るのがスジであった。でもそれは、

 1.プラントを動かせる技術人材が圧倒的に不足していたり、
 2.電線や変電所を建てるコストが馬鹿にならなかったり、あるいは
 3.発電所に投資するお金が汚職&賄賂LOVEなおっさんに吸収されたりして、

貧しい国ほど電化率が改善されにくいという悲しい経緯があった。

 ところが、太陽光発電や小型水力発電などの分散型電源(Distributed Generation)の台頭によって、そうした状況が一気に改善される目が出てきた。なぜなら、分散型電源は上述の障壁をうまくスルーすることができるからだ。すなわち、

 1.操作は比較的単純なので技術人材はあまり必要ないし、
 2.(携帯充電などの即時需要を満たせば良いので)電力網の整備は必須条件ではないし、また
 3.現物支給に徹すればおっさんによる「中抜き」も起こりにくい。

 私は思うのだけど、あと10年もしたら、「再生可能エネルギーの割合が高い国ランキング」の上位陣はアフリカ諸国に塗り替えられるかもしれないですね。電力の安定供給とか、調達先の多様化とか(あるいは電力会社の既得権益とか)、そういった先進国的なお題目に縛られないぶん、かえって太陽光パネルの普及がうまく進むんじゃないだろうか。まあこれは期待半分ではありますが。


電化率の低い国ほど、貧困率も高い傾向にある。同種の研究はいろいろあって、たとえば電化率は乳児の死亡率、初等教育を受けた子どもの割合、識字率、交通・下水道等のインフラ整備率などとも強い相関があると報告されている。
図の出所:International Institute for Applied Systems Analysis「Global Energy Assessment」(2012年)


 担当教授はDaniel Kammen。私がGSPPへの進学を決めたのは、誰あろうこの人がいるからだ(出願エッセイでもお名前を拝借した)。ハーバード大学で物理学の博士号を取得し、2007年にノーベル賞を受賞したIPCCの総括執筆責任者、世界銀行のチーフ・スペシャリスト、オバマ政権の気候変動アドバイザーなどを経て、現在はUCバークレー再生可能・適正エネルギー研究所(RAEL: Renewable and Appropriate Energy Laboratory)のディレクター兼エネルギー資源グループ(REG: Energy and Resources Group)の教授兼GSPPの教授という、ちょっと眩しすぎる経歴をお持ちの方なのだが、今回授業を受けてみて、その肩書に負けない知性と人格の備わった方であることがよくわかった。というとちょっと褒めすぎかもしれませんが。

 しかし正味な話、エネルギーについてここまで広く深く話せる御仁を、私はこれまで見たことがない。エネルギーという分野には広大な山脈を連想させるところが私にはあって、それは石炭、石油、原子力、太陽光という名の山々に、地学、有機化学、電気工学、経済学という名の登山道がそれぞれ複雑に巡らされているという意味合いなのだが、その全容を正しく把握するのはほとんど不可能と言ってよく、多くのレンジャー(案内人)たちは、限られた経験と未踏の山々の稜線から訳知り顔にガイドするほかない。
 そうした中で、Kammen教授はすべての山のすべての道を踏破してしまった変態レンジャーのようなもので、視座のひとつひとつが細やかで立体的、いわば虫瞰図と鳥瞰図を同時に持った状態である。季節の移ろいにも敏感で、なおかつ山の成立史にも通暁しているのだから、これはやはり余人をもって代え難いレンジャーということになる。

 うーん、また、褒めてしまった。でも褒めるしかないんですよね、この人の場合は。

本授業の最終課題、20ページ程度の政策分析ペーパーにおいて、私は「ケニアの太陽光発電を対象とした固定価格買取制度の費用便益分析」をテーマとした。そう、これは先に紹介した費用便益分析の応用(またの名を使い回し)である。

「資源大国アフリカ」の印象に反して、ケニアは化石資源に乏しい国である。もっともそのおかげで「天然資源の罠」(途上国で豊富な資源があると独裁政権の金づるになったりしてかえって経済成長が妨げられるという主張。オックスフォード大学のポール・コリアー教授が提唱した)を回避できているという見方もあるかもしれない。でもここで言いたいのは、ケニアは今後も再生可能エネルギーに頼る必要があるのに、太陽光発電のポテンシャルが現時点では十分に活かされていないということだ。図の出所:Kenya National Bureau of Statistics 「Kenya Facts and Figures」(2013年)を元に筆者作成

ケニア政府は、実はすでに太陽光発電を対象とした固定価格買取制度(FIT)を2010年から実施している。しかし、最大で0.2$/kWhという現行の買取価格は、残念ながらケニアの事業者の重い腰を上げさせるだけのパワーを持ってはいないようだ。

それでは、買取価格をいくらにすれば社会的な便益が最大になるのだろうか?再掲になるが、私は費用便益分析を以下の3つのステップに沿って行った。
ステップ1: 買取価格を「x」としたときの総発電量を、xの関数「y=f(x)」で表す。
ステップ2: 費用&便益の各項目を、yの関数(ということはxの関数)で表す。
ステップ3: 「便益の現在価値の総和」から「費用の現在価値の総和」を引いた値(Net Benefit)が、どの買取価格(x)で最大になるかを求める。

ステップ1では、ケニアの日射量が地域ごとに異なる事実を利用して、「発電容量10MWの太陽光パネルについて」、「投資回収が5年で達成できるほど買取価格が高かったとき」、「0.01%の土地が太陽光発電に使われる」といった仮定の下に、買取価格と発電量の関係を表すシンプルなモデルを作成した。
図の出所: J. K. Kiplagat et al.「Renewable Energy in Kenya: Resource Potential and Status of Exploitation」(2011年) 

上に示すのがその試算結果だ。価格(Price)と発電量(Quantity)の関数なので、これはFIT政策下における供給曲線と見ることができる(通常の電力市場とは逆に、買い手=電力会社、売り手=事業者というのがポイント)。
このモデルは、「現行の買取価格(=0.2$/kWh)は事業者に太陽光発電の参画を促すには不十分」であることを示唆している。

これがステップ2の結果である。引用文献によっては換算係数に幅があるためTotal CostとTotal Benefitの双方の見積もりに高低が生じているが、総じて「はじめはTotal Benefitの方が大きいけれど、買取価格が高くなるにつれTotal Costに追い抜かれる」という傾向が認められる。

そしてこれがステップ3の結果だ。実線は平均推定値(Mean Estimate)、2つの破線は上方/下方推定値を示している。平均推定値だけを見て結論に飛びつくと、買取価格が0.44$/kWhのときに総便益は約360百万ドルで最大になる(これはケニアのGDPの1.0%に相当)。しかし、もしケニア政府がリスク回避を好む傾向にあるなら(経済学的に言うと、期待値が同じでも分散が少ないほど効用が高くなるRisk Aversionの傾向にあるなら)、買取価格はもう少し保守的に0.31$/kWhあたりからはじめても良いかもしれない。
あるいは、太陽光発電の参入障壁が設備投資(Capital Cost)の高さにあることを斟酌して、FIT政策に併せて補助金や税控除(Tax Credit)を実施するのもひとつの選択肢ではある。(両者の政策は相互排他的ではない)
ということで、ケニアのエネルギー担当の高官がこの記事を読んでいる可能性は・・・限りなくゼロに近いとは思うけど・・・万が一ご覧になっていらっしゃるようでしたら、ご賢察のほど何卒よろしくお願いいたします。



<ビジネス基礎講座 (Fundamentals of Business)>
 選択科目。週3時間。Haas(UCバークレーのビジネススクール)が他学部の大学院生に門戸を開いている授業で、Marketing, Management, Accountingの3科目を5週ずつ学ぶ構成になっている。各科目にレポートと試験(ただし自宅で受けられる)が1回ずつあるので、学期中はずっとせわしなかったが、それでも他の授業に比べれば楽だった気がする。
 でも正直なところ、本授業を通して何か大きなTakeawaysが得られたかというと、ちょっと即答しにくい面があるのも確かだ。まあこれは私が留学前にMBA的な英語学校でManagementやAccountingについてある程度勉強していたからであって、先生やカリキュラムの質が低いというわけではまったくない。むしろ「さすがMBA!」と唸らされることが多かった。ビジネス系の分野をこれまでほとんど勉強したことがない人にとっては、本授業は格好の水先案内となるだろう(事実、クラスの約半分がエンジニア系の学生だった)。

 私が最も感銘を受けたのはMarketingの科目であった。マーケティングというと、なんとなく「モノを売る小手先のテクニック」的な印象をお持ちの方もいらっしゃるかもしれない(少なくとも5年前の私はそうだった)。でも実は、マーケティングというのは、孫子の有名な箴言「彼を知り、己を知れば百戦して殆うからず」を、ビジネス風に(アメリカ風と言ってもいいかもしれない)パラフレーズしたものだったのだ。
 然してその応用範囲はビジネスに留まらない。「同業他者との比較から、自分が戦えるフィールドがどこかを把握し」、「どの顧客層に狙いを定めれば最大の効果があがるかを判断し」、「そこに持てるリソースを集中してつぎ込む」という戦略は、自営業にも、研究者にも、行政官にも、そしてブログ運営者にも大いに有用であると思う。

 各科目で提示された課題図書を以下に記す。特にコトラーの教科書は、卒業後にじっくり読んでみたいものである。

【Marketing】
Phillip Kotler 「Marketing Management」
Alexander Osterwalder, Yves Pigneur 「Business Model Generation: A Handbook for Visionaries, Game Changers, and Challengers」
Don Schultz 「Sales Promotion Essentials: The 10 Basic Sales Promotion Techniques... and How to Use Them」
Seth Godin 「Permission Marketing: Turning Strangers Into Friends And Friends Into Customers」

【Management】
Kent Lineback, Linda A. Hill 「Being The Boss: The 3 Imperatives for Becoming a Great Leader」

【Accounting】
William G. Droms, Jay O. Wright 「Finance and Accounting for Nonfinancial Managers: All the Basics You Need to Know」




 2013年は、私の人生で最も勉強した1年であった。いま改めて実感するのは、密度の高いインプットを行うのに、バークレーは最高の環境だということだ。そんな環境に身を置ける幸せを、普段は課題に追われて見失いがちだけど、ゆめゆめ忘れるべからずと自戒したい。
 しかし同時に、インプットを積み重ねるだけでは行き場というものがないよな、と思ったのも確かである。「ひとりの人間がその人生で何をなしたか」を計る尺度は、インプットではなく、アウトプットの質量によって決まるものだろう。大量の本を読んでも、高度な専門知識を蓄えても、立派な資格や学位を揃えても、それだけではアウトプットはゼロなのだ。
 
 留学生活も残すところ来学期のみとなった。卒業がいよいよ視界に入ってくる。そして、一番最初に宣言したとおり、「バークレーと私」は、卒業とともに終了となる。
 このブログを広義のアウトプットと捉えてよいなら、2年間、ささやかだけど手ごたえのある(tangibleな)仕事ができたと思う。少なからぬ情熱を注ぎ込んだ結果、少なからぬ対価を得ることができた。それはひとえに、このページを何度も訪れてくれた皆さんのおかげである。

 「アイ・ラヴ・ユー」を叫んだのは、もう半年以上前のこと。でも、大事なことは何回言ったっていいものだ。

 みんな、愛してるよ。




 なんだか最終回の挨拶みたいになってしまった。でももうちょっとだけ続きますからね。

2013/12/07

UCバークレーの便所の落書きを集めていること

 男の子の定義とは何か。いろいろなものがあるだろうが、仮にそれを「何の役にも立たないものを熱心に集めるアホ」とするならば、私はまごうことなき男の子であった。

 どんぐり、牛乳びんのふた、ビックリマンチョコのシール、ドラゴンボールのカードダス、岩波文庫のしおり、B級映画のチラシ、新聞の人生相談のスクラップ、電車内でぐんぐんになっている人の発言録・・・。

 私を焦がしたあの情熱は、どこから湧き出たものであったか。
 答えはコレクションとともに雲散霧消し、いまはさびしく微笑むほかない。
 

 ところが最近、燃えさしの薪にまた火がついたようになって、ひとつ集めているものがある。それは、UCバークレーのトイレで見かける落書き(の写真)だ。





 コレクションをはじめて3カ月。収集品の数もそれなりに充実してきたので、今回はその一部を皆さんに公開してみたい。
 食事中の方は、いったん箸を置かれることをおすすめします。


作品番号1 市場主義あるいはミスターT
 「MKT」は市場(Market)、「The tea party」とは小さな政府を目指す運動のことだから、「政治問題を解決するのは市場原理のみだ」という社会風刺的な落書きだと思っていたのだが、最近になって、これは「MKT」じゃなくて「特攻野郎Aチーム」というテレビドラマに出てくる「MR.T」なんじゃないかと気がついた(MR.Tはモヒカンのマッチョ野郎なので、イラストにもマッチする)。
 「ティーパーティー運動を阻止できるのはミスターTだけだ」。
 だから何なんだ、とツッコんだらこちらの負けだ。



作品番号2 レーザー鮫の冒険のための習作
 地球惑星科学科のトイレで遭遇。ノリとしては、「ぼくの考えたポケモン」、コロコロコミックの読者投稿欄に出てきそうな感じではある。でも決め台詞の「Y.O.D.O. (You Only Die Once, Motherf**ker)」は、コロコロコミックにはちょっと向かないかもしれない。

 
 
 1ヶ月後に再訪したら、鮫釣りの漁船が描き足されていた。この即興性(Improvisation)が便所の落書きの魅力だ。
 
 
 
作品番号3 魚と無
 大便器に跨っていたら、突然、魚が食べたくなった。そんなことがあるのだろうか。
 どこか焦燥を感じさせる筆致の「魚」と、その小脇に佇む四つの「無」。わけもわからず書いたのか、わけがわかって書いたのか。人生の虚無性について考えさせられる名作だ。

  
  
 
作品番号4 超訳・オイディプス王
 「古今の名作を一行で要約する」というネタを昔の深夜ラジオか何かでやっていたけれど、その心を受け継ぐ者がバークレーにも現れた。でもこれはひどい。ソフォクレスさんも草葉の陰で憤慨していることだろう。
 後に誰かが書き足した「Blind」の単語が、ある種の文学的なフォローになっているのが滋味深い。



作品番号5 ウンコをもらした男
 おもしろうて、やがて悲しき四行詩。よく読むと各行の最後で韻を踏んでいて(heartedとfarted、by chanceとmy pants)、なかなかに芸が細かい。



作品番号6 ティファニーで朝食を、スタンフォードに小便を
 これは厳密には落書きではないし、バー「Henry's」のトイレにあったので大学構内という条件すら満たしていないのだが、MPH/MBAのMasakiさんに教えてもらっておもしろかったのでここに載せる。
 UCバークレーとスタンフォード大学がライバル関係にあるのは有名な話で、その憎き(?)スタンフォードのロゴに小便をひっかけてスッキリしようという、まあこれは悪趣味なジョークなのだが、私はこういうのはわりに好きな方である。つまり悪趣味な人間なのだ。


<落書きは多くない>
 こうしてコレクションを並べてみると、「UCバークレーのトイレは落書きだらけなのか」と思われる向きもあるだろう。しかし、それはまったくの誤解である。
 私はかつて日本の便所の落書きを収集していたこともあるので(ヒマですね)相場観がある程度わかるのだが、UCバークレーはかなり少ない方である。

 落書きをあまり見かけない理由として、「UCバークレーの学生は真面目だから」というのがあるかもしれない。しかし私はこの説を支持しない。パレートの法則で知られるように、どの集団にも一定割合のダメな奴がいるものなのだ。
 むしろ私は、「落書きが頻繁に消されるから」という説を唱えたい。事実、これはと思った落書きを発見し、カメラを携えて後日再訪したらもうなくなっていたというケースも一度や二度ならずあった。

 たとえば、壁にあけられた小さな通気孔に矢印を指し、「NSA is spying on you.」と書かれた落書きがあった。
 ご案内の方も多いと思うが、NSAとはNational Security Agency、すなわち国防総省の諜報機関のことであり、「彼らはトイレでウンコをしている(あるいは何か別のことをしている)あなたのことも監視していますよ」というのがこの落書きの趣旨なのだが、数日後に訪れたときにはすでに跡形なく消えていた。なんだかジョージ・オーウェルの小説に出てきそうな話だが、作者の生存を祈りたい。



<落書きは国境を越える>
 私がコレクションをはじめた理由のひとつに、「日米のお国柄の違いを見てみたかったから」というものがある。便所の落書きに見る日米比較文化論。そんな題の学術論文があったっておかしくない。

 便所探索の初期においては、やたら男性器の落書きが目についた。翻って、日本の(男子)便所には、むしろ女性器の落書きが多かった気がする。

 これは一体どういうことか。

 狩猟文化と農耕文化の違い?
 PaternalismとMaternalismの違い?
 それとも、性に対するタブー意識の違い?

 ・・・などと思索に耽る日々であったのだが、サンプル数が増えるにつれて、統計的有意性は徐々に薄らいでいった。つまり、女性器の落書きもたくさんあったのだ。

 共通点はほかにもある。「壁に落書きするな ← お前がしてんじゃん」とか、「右を見ろ・・・上を見ろ・・・アホ」といった、いわば便所の落書き界における定番ネタを、バークレーでも頻繁に見かけた。言語は違えど、内容は概ね同じである。

 これは一体どういうことか。

 日から米へと、あるいは米から日へと、文化的伝承のようなものがあったのだろうか?
 それとも、世界の神話が奇妙な類似性を示すのと同様に、人間の意識が深いところで地下水脈のようにつながっていることへの証左なのだろうか?

 思索の種は尽きない。

(でも、「鬱だ」「死にたい」的な落書きはバークレーではほとんど見かけなかったですね。これは相違点に数えられるかもしれない)



<便所=メディア論>
 便所の落書きの歴史は、どこまで遡れるものなのか。一説によると、紀元前2200年頃に建造されたメソポタミアのテル・アスマル宮殿にはすでに水洗便所が存在したということなので、そこで当時のシュメール人だかアッカド人だかが「ウンコ」「アホ」などと書きつけたものが人類初の落書きだったのではあるまいか。爾来、人類は4,000年以上にわたり、脈々と「ウンコ」「アホ」と書きつづけてきたわけである。そう考えるとなんだか胸が熱くなる。

 便所の落書きの魅力。それは、一定の匿名性を保ちながらも、書き手の体温をそこはかとなく感じられるところにある。便所の落書きの作者というのは、往々にして何らかの屈託を抱えた輩であるが(心身ともに充実した人がトイレの壁にペンを走らせる姿を想像するのは難しい)、直球のヘイト・メッセージが意外にも少ないのは、やはり書き手が後続の読み手の存在を意識するからであろう。
 空間の共有性。より詩的に表現するなら、便器に跨る孤独な魂たちの交信。これが便所というメディアの特性なのである。

 かつて、インターネットの匿名掲示板が「便所の落書き」の代替物になるとみられた時期があった。しかし、そうしたものの登場から十余年を経たいまなお、便所の落書きが絶滅危惧種に指定される気配はない。iPodが市場を席巻してもレコードプレーヤーの愛好者がいなくならないように、便所の落書きには便所の落書きにしか果たせない役割があって、世界の不充足を細々と引き受けているのである。千年単位の不充足を。



<読者の皆さまへお願い>
 味わい深い便所の落書きを見つけた方は、
 berkeleyandme便所gmail.com
 まで写真をお寄せください。国・地域を問いません。

 ※「便所」を「@」に置換してください

2013/11/14

GSPP新入生の多様性に再び感銘を受けたこと

 GSPPに入学して1年と少し。私も無事進級して2年生となり(留年しなかった。よかった!)、後輩などというものが現れた。といっても、堅苦しい上下関係の類はまったくない。
 ここはバークレー。自由な風の吹く場所なのだ。
 
 今回は、昨年書いたGSPPの多様性に関する記事の続篇的位置づけとして、2013年入学組の特徴と、ひとりの日本人へのインタビューを紹介したい。



第1部 ファクト篇>
・2013年の生徒数は81名。うち男性は32名、女性は49名。同年の応募者数は737名というから、単純倍率は約9.1倍ということになる。

・平均年齢は27.5歳で、平均勤務年数(Average years of work experience)は4年。私の代とあまり変わらないのは、たぶんそうなるように選考しているからだろう。

・留学生は16名。その内訳は、メキシコ(4名)、インド(3名)、中国(2名)、日本(2名)、オーストラリア、カナダ、チリ、コロンビア、コスタリカ。英語に苦戦しているのは日本人くらい・・・というパターンも、悲しきかな、今年も同じかもしれない(がんばってくれ!)。

・学部の出身は、UCバークレー(8名)、ハーバード大学(2名)、プリンストン大学(2名)、北京大学(2名)といった名門校も目立つけれど、全体としてはバラバラで、学歴はそこまで重要視されていないようだ・・・というのも昨年と同様。

・学部時代の専攻は、経済学(13名)、政治学(10名)、心理学(6名)、ビジネス(3名)、環境学(3名)、人類学(3名)、コンピューター・サイエンス(3名)、歴史学(2名)、国際関係論(2名)、社会学(2名)、アジアン・アメリカン学(2名)、中南米学(2名)、ジャーナリズム(2名)、動物学、演劇学、電気工学、化学工学、中東学、数学、倫理学・・・リストは続く。しかし世の中にはいろいろな学問がありますね。

・前職は、金融アナリスト、コンサルタント、シンクタンク、エンジニア、研究者、記者、政治家のスピーチライター、小学校教師、大学職員、NPO職員、地方公務員、国家公務員・・・リストは続く。

・生徒の関心領域は、農業、教育、環境、エネルギー、社会福祉、ジェンダー、貧困問題、刑事司法、地方自治、行政組織など。ひとつの傾向として、今年は開発分野に興味のある人が若干多いような気がする。

・GPAの平均点は3.69点。(レンジ:2.69~4.16点。満点=4点を超えているのは、おそらく、「A+」がたくさんあるということなのだろう。学部時代、学期内取得単位数が「0単位」だったこともある私から見ると、これはもう雲の上の世界である)

・TOEFLの平均点は110点。(レンジ:102~118点。すごすぎる。118点なんて、どうやったら取れるんだ?)

・GREの平均点は、Verbalが160点(レンジ:144~170点)、Quantitativeが159点(レンジ:148~170点)、Analytical Writing:が4.5点(レンジ:3.0~6.0点)。



<第2部 インタビュー篇>
 今年GSPPに入学した日本人のひとり、Tomokazuさんをお招きして、インタビューを行った。
 Tomokazuさんは、発酵食品にたとえると、「テンペ」のような人である。テンペとは、ゆでた大豆をテンペ菌で発酵させた、インドネシアの伝統食品だ。植物性たんぱく質、ビタミンB群、リノール酸、食物繊維、ミネラル、サポニン、イソフラボンなどが豊富に含まれているため、日本や欧米でも健康食品として最近とみに注目を浴びるテンペ。通常価格48万8,000円のところ、いまなら期間限定、40万円ポッキリでのご提供となっております。

Satoru(以下、S): Tomokazuさん、こんにちは。

Tomokazu(以下、T): こんにちは。

S: まあ、ビールでも飲みながら。一杯どうぞ。

T: あ、どうも。

S: うまい。

T: うまい。

S: まずは・・・そうですね、
  平凡な質問で恐縮ですが、
  話せる範囲で自己紹介をお願いできますか。

T: バークレーに来る前は弁護士をしていて、
  自分で法律事務所を経営していました。

  もともとは法律と全然関係のない
  文化人類学という学問を専攻していたんですが、
  2年近いイランでのフィールドワークを終えて帰国した翌年に
  一期生として日本の法科大学院に入って、
  それから10年ほど法律の世界にどっぷり浸かっていました。

S: 文化人類学、イラン、弁護士。
  三題噺のお題になりそうな、
  妙味のある組み合わせですね。

  これは漠然とした質問になりますが、
  Tomokazuさんの「人生の転機」は
  どのようにして訪れたのでしょうか。

  おもしろい人に出会ったからとか、
  印象的な事件に接して天啓に導かれたとか、
  あるいはただなんとなくとか、
  これはいろいろなパターンがありそうですが。

T: イランでの経験を抜きには語れないテーマですね。
  そもそも、なんでイランに2年も?
  というのは気になるところなんじゃないかと思うんですが、
  日本の外に出て、まとまった期間フィールドワークをするというのは、
  プロの人類学者になるための通過儀礼みたいなもので、
  これに挑戦するのは人類学者志望だった僕には自然ななりゆきでした。
  学部生だった僕の準備は不十分で、無謀な挑戦でしたけど。

S: ほほう。

T: それで、僕の場合はイランをフィールドに選んだんですが、
  その理由は大きく分けて2つあって、
  ひとつは当時イランをフィールドにしている日本の人類学者が希少で、
  その分野の第一人者になることを狙えそうだったこと、
  もうひとつは僕がイスラーム文化を肌で感じてみたかったことでした。

  イランで調査をやろうと決めたのは
  2000年の秋頃だったんですが、
  「西洋」対「イスラーム」という構図が
  盛んに議論されるようになっていたころで、
  その議論が意味しているところを自分の目で見て確かめたくて。

  ちなみにイランを訪れて調査を始めたのはその1年後で、
  実は911の同時多発テロ事件の直後でした。
  時期を逸した感がありましたね。

S: なるほど。おもしろいですね。
  私はその頃、あまり大学には行かずに、池袋の映画館の片隅で、
  サイードの「オリエンタリズム」を読んでいた記憶があります。
  アホだったので、まったく頭に入ってきませんでしたが。

T: 映画館の暗がりで読書とは酔狂ですねえ。

S: それはさておき、
  911の直後からイランに住むというのは、
  これはなかなかシビれる体験ですよね。

  当時は、ブッシュ元大統領の「悪の枢軸」発言などを通じて、
  西欧との対立構造がますます煽られていった時期に重なると思います。
  現地在住者の立場から、何か特別な実感はありましたか。

T: 事件が起きてすぐ、
  イランへの渡航は止めた方がいいというアドバイスも受けましたし、
  そもそもビザは出るのかな、と心配になったりもしましたが、
  ビザが出たと在日イラン大使館から電話があったのが事件の翌朝で、
  大使館の窓口の人の対応も「やっとビザが出て良かったですね」と
  911の影響を微塵も感じさせないものだったので、
  拍子抜けしてイランに向かったのを覚えています。

S: 911の翌朝にビザが出るってのが、なんかすごい象徴的ですね。
  でもそのままテヘランで2年間暮らしちゃうあたりに、
  Tomokazuさんの凄みがあるような気もします。

T: よく、イランは危なかったでしょう?と質問されるんですが、
  少なくとも僕が住んでいたテヘランはいたって平和でした。
  とはいっても、お隣りのアフガニスタンとイラクで「戦争」が起こるたび、
  在留邦人向けに退去の警告くらいは出ていたかもしれません。

  現地のイラン人は「次はイランだなー」なんてよく笑っていましたね。
  まあ、ある程度は腹をくくっていたんじゃないかと思います。
  攻撃される理由があると信じていたわけじゃないでしょうけど。

S: それでは、Tomokazuさんが実際に留学するまでの
  ミッシング・リンクを埋める質問に移りますね。

  まず、人類学から法曹界というのは、私の目から見ると、
  かなり飛び抜けたキャリア・チェンジのように思えます。
  そこには何か、特別な理由のようなものがあったのでしょうか。

T: しつこいかと思いますけど、ちょっとイランの話に戻りますね。
  現地では、生活のためにペルシャ語をゼロから勉強しつつ、
  日本人妻といわれる方たちにインタビューをしていまして。
  彼女たちは、イラン人の男性と出会い結婚して、
  いろいろな経緯でテヘランで暮らすようになった方たちなんですが。

  彼女たち一人ひとりのライフヒストリーに耳を傾けていく中で、
  彼女たちの悩みや苦しみを目の当たりにする機会が出てきたわけです。

  で、そのうちどうしても解決できない疑問が出てきてたんですよね。
  人類学者が調査を進めるには誰かの力を借りないといけない、
  でも人類学者はその誰かの力になることができるのか、という。
  911の後でセンシティブになっていたのかもしれない。

  そうして、日本に帰ってくるころには、
  大学院に進んでプロの人類学者を目指すのは自分の道じゃないかなと。

  かといって、大学4年の夏も終わりかけの時期に就職活動もないし、
  当面はフリーのペルシャ語通訳でもやろうかと考えていたときに、
  日本で法科大学院の一期生を募集しているという広告か何かをみて、
  法律の知識があれば誰かの役に立てるかなと思って。

S: (ビールのお代わりを飲みながら)ええ。

T: 弁護士になろう!
  と最初から思っていたわけじゃないんですよね。

  ただ、法科大学院に入ってみると
  周りはそういう動機をもった人ばかりで、
  たしかに法律の知識を使って何をするか具体的に考えないとな、
  と考えて、
  それならひとつということで弁護士を目指すことにしました。

S: しかしまあ、「それならひとつ」で
  弁護士になっちゃうってのがすごいですね。
  そんなに簡単になれるものじゃないでしょうに。

  それで、弁護士になってみて、どうでしたか。
  傾聴のスキルが求められるという意味では
  人類学とも共通する要素がありそうですが、
  また違った世界が見えてきたのでしょうか。

T: 弁護士になってすぐ、
  企業の知的財産を扱うようになりました。
  この分野には未開拓な領域がたくさんあって、
  知的好奇心をくすぐられる、「かっこいい」仕事だったんですが、
  うーん、なんか違うぞ、と。

  それで当時の所属事務所は半年ほどで辞めさせていただいて、
  中型二輪の教習場に通ったりしつつ(笑)、数か月迷った末に、
  依頼者の人生にコミットするような仕事をしていこうと考えて、
  自分で法律事務所を開いて試行錯誤していこうと決めました。

  普通の人が弁護士を必要とするのは一生に一度あるかないかです。
  そこからは人生や人情の機微に触れるような仕事の連続でした。

  依頼者の方々には話したいこと聞かせたいことがいくらでもあります。
  少なくとも数時間では語り尽くせないぐらい。

  一方で、弁護士からすると知っておきたい大事な話であっても、
  依頼者の方々からするとあえて触れたくない話や、
  どうでもいいと思われてなかなか出てこない話もあります。

  依頼者の方々の訴えを正面から受け止めながら、
  言葉の裏にあるもの、ありそうなものを探るスキルは、
  この種のテーマを扱う弁護士に不可欠だと思いますよ。

  依頼者の方々が納得して人生の次のステップに進めるかどうかは、
  このプロセスをどう進めるかにも影響を受けますし。

  法律の知識を得たり深めたりする方法はクリアなんですが、
  このスキルを高める方法には答えが・・・。
  課題を見つけては反省するのをひたすら繰り返していました。

  人類学を続けていても似たような悩みはもったでしょうね。
  ただ、下手を打てば依頼者を即傷つけてしまう弁護士の場合、
  悩みに伴うプレッシャーはかなり厳しいです。

S: いい話ですね。
  
  でも、Tomokazuさんのように、
  依頼者の心情の機微をつかんで、
  そこから真の答えを探ろうとする弁護士って、
  わりに少数派のような気もします。

  というのも、実務の都合を考えれば、
  「弁護士は法律事務にこそ専念すべきで、
  カウンセラー的な役割を果たす必要はない」
  というスタンスを取る人の方が多そうですよね。
  これは、法曹界についてよく知らずに言っているのですが。

  Tomokazuさんの、その傾聴に重きを置く姿勢は、
  幼少時に自然と培われたものなのでしょうか。
  それとも、人類学のフィールドスタディなどの経験を通じて、
  後天的に身につけられたものなのでしょうか。

T: どうなんでしょうねえ。
  ほかの弁護士の仕事の進め方には僕も興味がありますが。

  少なくとも自分に関していえば、
  根っこの部分から問題を解決するのが仕事だと考えていたので、
  じっくり話を聞いて問題を探すプロセスは実務上も必要でした。
  実際にそれがどれだけできていたかはともかくとして。

  まあ、そういう考え方をとらなかったとしても、
  丹念に事情を聞き取ることは不可欠だとは思いますけどね。
  対象の全容と詳細をつかんでおかないと、
  死角から弾が飛んできて致命傷を負うことになりかねませんから。

  単純に目の前の人のことをよく知りたいというのもあると思います。
  自他ともに人間ってよくわからんなあという感覚が昔からあって、
  よくわからない、だから知りたいという。

S: 人間、わからないですよね。

  科学技術がいくら発展しても、
  生活水準がいくら向上しても、
  人間そのものに対する「わからなさ」の度合いは、
  結局あまり変わらないんじゃないかという気がします。

  しかし、弁護士が海外留学するとなると、
  ロースクールに行くのが王道というか、
  まあわりに一般的な選択肢ですよね。

  にもかかわらず、Tomokazuさんが
  あえて公共政策学を専攻された背景には、
  どのようなものがあったのでしょうか。

  その問いに対する答えが、
  おそらくTomokazuさんの出願エッセイの
  通奏低音にもなっているのだと思いますが。
  (さあ、ようやく留学インタビューらしくなってきたぞ!)

T: 法律家としての引出しは増やしたいし、
  この国の法律を勉強したいという意思はあるんですが、
  ロースクールという選択肢はありませんでしたね。

  1年政策を勉強して1年法律を勉強するのが可能ならアリかな、
  とは思うけど。

S: なるほど。

T: 僕の理想の世の中は、争いのない平和な世の中なんですよね。
  弁護士の要らない幸せな社会。

  それが近い将来に実現するとは思えないのが悲しい現実だけど、
  それでもそのうさん臭い理想にアプローチする方法はないのかなあ、と。
  僕がこれまでやってきた個々の問題に対処する方法じゃなくて、
  その問題の根本にある社会の病理そのものを根治する方法、というか。

  それで自分の出した一応の答えが、
  紛争を解決するためのツールをどう運用するかではなくて、
  どうやったらダイナミックに社会を変えられるかを学ぶ、
  というものだったということですね。
  僕が公共政策を学ぼうと思い立ったのは。
  あ、これって堯舜の伝説を追い求める昔の中国の思想家みたいな・・・。

S: なんだかスケールの大きい話になってきました。

T: 日本の法科大学院に在籍していたときのことですが、
  発展途上国の法制度を整備するというプロジェクトに興味をもって、
  ラオスの司法省内にあったプロジェクトチームで
  インターンをさせていただいたことがあるんです。
  こうした経験もどこかで自分の選択と結びついている気がします。

S: おもしろいですねえ。

  先程おっしゃった「1年政策を勉強して1年法律を勉強する」
  というのは、まさにうちの大学院のスタイルにあっていますよね。
  GSPPの場合、1年目は政策関連の必修科目ばかりですが、
  2年目は基本的にどの学部のどの科目を取ってもOKなので。

  実際、私の代のクラスメートを見ても、
  ロースクールやMBAのクラスを取りまくっている人もいれば、
  哲学や歴史学など、また一味違う分野を開拓している人もいる。
  この自由さは、やはり最高ですね。

  さて、ここで急にプラクティカルな質問になりますが、
  TOEFL iBTについては、どのように準備を進められましたか。
  弁護士の仕事をしながら英語の勉強をするのは、
  やはりそれなりの苦労はあっただろうと推察しますが。

  いやいや、すでに日本語、英語、ペルシャ語の
  トリリンガルであらせられたTomokazuさんは
  そんなに苦労しなかったのかな(笑)?

T: 英語は昔から苦手ですよ。
  高校のときなんか返却された英語の答案に
  「Do your best」って毎回書かれてるのを見て、
  「best」ってことはいい意味なのかな?
  とずっと勘違いしていたほどです。

  正答率10%以下の答案に
  ほめ言葉が書かれているわけないんですけどね。

S: ははははは!

T: そんなわけで英語には当然苦労しましたが、
  まず旺文社の「TOEFLテスト英単語3800」の
  掲載単語をひととおり覚えました。
  発音を意識して勉強したら少しずつ
  英語が聞き取れるようになっていきました。

  それから「Extensive Reading for Academic Success」
  というシリーズでリーディングの勘をつかむのと並行して、
  オンライン英会話を使って英語を話す練習をしました。

  英語の雑誌記事をまとめたりもしたなあ、
  すぐ飽きてやめたけど・・・。

  そうして一発でTOEFLを仕留めにいったんですけど、
  結果は99点、98点、99点、102点と、
  4回受けてギリギリ出願に必要なラインを越えた程度でした。
  越えてないところもあったかな?

S: いや、すごいなあ!
  TOEFL iBTに臨む日本人は、
  60点台あたりからはじまってひたすら受けまくるタイプ(例:私)と、
  最初からサクっと100点近くを取るタイプの2種類に大別されると思うのですが、
  Tomokazuさんは明らかに後者のタイプですね。

  GREについては、いかがでしたか?
  私の代から点数計算(っていうと麻雀みたいだけど)の方針が
  変わったため、相場観がよくわかっていないのですが。

T: 公共政策大学院の場合は、
  GREの代わりにGMATの結果を受け付けてくれる学校もありますよね?
  で、GREよりも簡単だという噂のGMATを2回か3回受けたんですけど、
  試験方式の関係で集中力が最後まで続かなくって。

  それで、回数制限の関係もあってGREの方を試しに受けてみたら、
  Verbalが156点、Quantが164点で。
  これ以上試験にお金をかけるのもアホくさいし
  最低限の水準は越えているだろうと判断して出願書類の作成に移りました。

  GREのVerbalとライティングの勉強は特にしませんでしたが、
  2ch等で評判の良かった「マスアカ」という教材で数学の記憶を喚起して、
  ETSの「POWERPREP」を使って試験の流れは押さえました。

  日本人はライティングが得意だといわれているようですが、
  TOEFLで22点前後、GREで3.5と酷い結果でした。
  中学高校で地道な勉強をさぼった影響が露骨に現れましたね。
  なおライティングの苦しみは現在も進行中です。因果応報です。

  出願を決心してから出願までにかかった期間は1年くらいですかね。
  TOEFL等の準備と受験、奨学金の取得にかかった時間もコミコミで。
  費用は多めに見積もって全部で20万円ちょっとかなあ・・・。

S: うーん、さすがですね。
  期間も短いし、費用も安い。
  私の場合、TOEFLの受験料だけでその2倍近くかかっているので、
  まったく愚かなものです。

  しかしこれも、「Do your best」の時代から
  努力を切々と積み重ねられた結果ですね。

  ここまでお話を聞いていて思ったのは、Tomokazuさんは
  「ここではないどこか」を求める夢想家的な気質と、
  目標に向かって着実に努力する実務家的な気質の、
  両者のバランスがいい感じに取れているなあ、ということです。

  立身出世にがっついてはいないけど、かといって
  「おれは競争から降りるよ」と宣言した風でもない。
  そうした心のありように、個人的には強く惹かれるものがあります。

T:  まあ、どこでも誰からも変わり者だと言われます。

  プラクティカルな話題ついでに触れておくと、
  奨学金のプログラムや大学院に提出するエッセイには
  ここでお話したようなことを書きました。

  決して美しい内容ではありませんが、
  それでバークレーで学ぶ機会と、
  歴史あるフルブライト奨学金を与えられているわけです。

  大学院にどう自分を売り込もうかと悩んでいる方たちには、
  泥臭くてもなんでもいいから、
  自分のやってきたことに誠実に向き合ったらいいことあるかもよ!
  って言いたいです。結果に責任は持ちませんけどね(笑)。

S:  うーん、格好いいなあ!
  最後の一言を除いて(笑)。

  さて、そのように受験地獄を乗り越え、
  バークレーに実際に来てみて、
  カルチャーショックとまではいかないでも、
  何か驚いたことなどはありますか。
  テヘランとはだいぶ違うと思いますが。

T:  いまのところは、ほとんどの出来事が
  当初の想像の範囲内に収まっています。

  日本の外で暮らした経験があるせいか、
  日本以外の国のシステムに対する期待が
  そもそも低いんだと思います(笑)。

  いくつか注目していることはありますが、
  もうちょっと観察に時間が必要ですね。

S: 「システムに対する期待が低い」、いい言葉ですね。
  相手に求める基準値がそもそも低ければ、
  文句も(あまり)出ないし、腹も(あまり)立たない。
  これは他の分野にも応用できそうですね。

  それでは、これが最後の質問になります。

  GSPPに来て早や3カ月が経とうとしていますが、
  どうですか、これまでの印象というか、感想は。
  我が身を振り返ってみれば、去年の今ごろは
  日々の課題をこなすだけで精いっぱいだったわけですが。

T: 当初、経済学と統計学の必修2科目に加え、
  法律と政治学の選択必修2科目を履修していました。
  が、アメリカの国内政治に関する議論が飛び交う
  政治学を早い段階でドロップしたので、
  Satoruさんのときほど厳しい状況ではないでしょう(笑)。

  それでも、課題に取り組んでいて
  脳から汗が流れ落ちる感覚に襲われたのは
  一度や二度じゃないですけどね。

  基礎からきっちり教えてもらえるから、
  授業についていけなくて苦しいということはないんだけど。

  最低でも、学校側のカリキュラムに食らいついていきさえすれば、
  最後には必ず「何か」ができるようになっているだろう
  という実感が今の時点でもあります。
  こういう感覚は、これまで得たことのないものかもしれません。

S: 「GSPPの単位は1.5掛け」という言葉があって、
  これは4単位の授業は他学部の6単位ぶんの
  ワークロードがあるという意味なのですが、
  政治学には私もとりわけ苦労しましたね。
  不如意な言語で不如意な内容を学ぶつらさ、というか。

  でも真面目な話、GSPPのカリキュラムは本当によくできているので、
  経済学や統計学の授業にしっかり食らいついていけば、
  1年後に確かなTakeawaysがあることは保証できますよ!

T:  最後にひとつだけ。
  僕がこうして大学院生活を送っていられるのは寛大な妻のおかげです。
  これを言っておかないと妻にあとで怒られる(笑)。

S:  すばらしい締めですね(笑)。
  ここは、私も同意見ということで。
  奥さんに、日々感謝ということで。

  じゃあ、そろそろ次のレースなので、パドックに行きましょうか。

T: 行きましょう。

(おわり)

対談場所: ゴールデンゲートフィールズ競馬場

2013/11/03

UCバークレーで中国語を勉強していること

A different language is a different vision of life.
(フェデリコ・フェリーニ)


 UCバークレーで、学部生向けの中国語のクラス(Elementary Chinese)を受講している。
 5単位の授業だが、GSPPの卒業に必要な単位数にはカウントされない。にもかかわらず、その負荷は今学期の少なからぬ割合を占めている。ニュアンスとしては、趣味の苦行といったところだ。

 31歳にもなって、英語すら満足に話せないのに、なぜここにきて新たな外国語を学ぼうとするのか。お前はアホなのか。と問われれば、「Yes, I'm stupid.」と答えてうつむくほかはないのだが、あえて理由を挙げるなら、それは次の2点ということになる。

1. 中国が好きだから。
2. 仕事を再開したら、新たな言語を学ぶための時間はもう取れないだろうから。

 「1.」について、私は日本を愛しているし、この国を守ってきた先人たちに深い敬意を表する者である。バークレーにも日の丸の国旗をしっかり持参してきた。
 しかし同時に、私は中国のことも憎からず思っている。とんでもない料理、とんでもない人物、とんでもない政策、とんでもない拷問、とんでもない爆発。歴史をひもとけば、そういうのは大抵中国から出てきている。その発想のスケールのでかさが好きなのだ。いや拷問も爆発も経験したくはないけど。
 でも真面目な話、地政学的に「仲良くなれない運命にある」とされがちな日本と中国だけど、文化的に一脈通じるのはやはり中国なのだなあ、とはアメリカに来てしみじみ思うことである。好(ハオ)。

 「2.」については、私も人生の残り時間を徐々に意識するようになったということだ。もちろん、語学と年齢は無関係という主張はある。考古学者のシュリーマンは、68歳で亡くなるまでに18ヶ国語をマスターしたという。素晴らしいことである。好(ハオ)。
 だが私は、自身の語学力の希少性(scarcity)を意識せずにはいられない。限られたリソースを、いつ、どのように振り向けるか。何事によらず、人生の要諦はそこにある(大げさ)。
 中国語学習をはじめるなら、留学中のいましかない。私はそう考えたのだった。


 上記2点のほか、中国語を学ぶことにした補足的な理由として、

3. バークレーには中国人がやたらと多いから。
4. 英語で中国語を学べば一石二鳥かもしれないから。

というのもあった。

 「3.」について、これはバークレーを訪れたほとんどの日本人が実感することだが、この街には実にたくさんの中国人が住んでいる。UCバークレーのUCは「University of California」じゃなくて「University of China」だ、というのはこちらでは有名なジョークだ。
 UCバークレーのサイトによれば、2012年の新入生のうち実に21.2%が中国人という。白人の24.3%に迫る勢いだ。しかもこの数字には12.7%の留学生は含まれていないため、実質的には中国人の方が白人よりも多いのかもしれない。チャイナ・パワー、おそるべし。
 でもそれは、中国語の練習相手に決して不足しないことを意味する。他の授業で中国人のクラスメートと会話したり(我不憧!)、私を同胞と勘違いして中国語で話しかけてくる中国人にも応対することができる(认识你很高兴!)。実のところ、これはかなり愉快である。

 しかし、「4.」について、このもくろみは大いに外れた。どの言語で学ぼうと、その対象が中国語である点は変わらない。むしろ、部首の意味を問うテストで「『瓦』の意味はわかるけど、それを英語で何というのかわからない」といった類の苦しみが付加されるだけであった。まあ、これはこれでコクがあっていいんだけど。

夏休みの間に夫婦で中国語を学ぶため、大学寮の掲示板に「個人教師募集」の案内紙を貼り出すつもりだった。ハワイでインターンをすることになったので、結局は貼らずじまいだったけど。

 以下、授業がはじまって9週間が経過した現時点の随想を記してみたい。

<生活のリズム>
 UCバークレーの外国語の授業は、週5回(月火水木金)×1時間のスタイルである。私は朝8時開始のコマを取っているため、必然的に朝型生活になる。どんなに眠かろうと、大学寮から自転車を漕いで(約30分)、クラスで漢字を書いたり音読したりするうちに、自然と意識も覚醒してくるというものだ。
 授業が終わり、教室を出て、まだ静かなキャンパスに漂う朝靄を吸い込む。手近なカフェに入って、ふかふかのバナナマフィンを一口齧り、熱めのエスプレッソを啜る。これはどうしたって気分が良くなる。


<クラスメートの若さ>
 これは学部生向け授業なので特に驚くこともないんだろうけど、クラスメートがとても若い。会話の練習で隣の兄チャンに「你今年多大?」と尋ねると、「十九岁」という答えが返ってくる。「おいおい、19歳かよ!」である。まあ、向こうにしてみれば「おいおい、31歳かよ!」なんだろうけど。
 こんなこと言うとおっさんぽくなるけど、でも若いってのはいいことだ。みんな元気で、自由で、よく笑い、よく学ぶ。時間にはルーズで、しばしば約束をすっぽかす。オーケー、オーケー。若さはすべての免罪符になり得るのだ。
 学部生以外の生徒も、少数ながら存在する。たとえば、私のコマの受講人数は約15名だが、そのうち1人はMPH(Master of Public Health)の大学院生で、もう1人はローレンスバークレー国立研究所(Lawrence Berkeley National Laboratory)の研究者だ。ちなみに後者の彼はインド人で、最近中国人の彼女ができたという。うん、それって語学学習における最高のモチベーションだよな。

漢字書き取りの宿題。文字通り、「一」からのスタートだ。

<日本人であることのアドバンテージ>
 皆さんご存じのように、中国語と日本語には、漢字という偉大な共通項がある。4年前の中国出張のとき、私は「ニーハオ」と「シェイシェイ」しか喋れなかったが、それでも紙と鉛筆さえあれば最低限の意思の疎通は図れたものだった(我・紹興酒・大好!)。これはやはり強力なアドバンテージだ。ちなみに韓国人も義務教育で漢字を習うとのことで(政府の教育方針に紆余曲折はあるみたいだけど)、私のクラスの約3割は韓国人または韓国系アメリカ人である。
 それに比べると、インド人や白人たちは読み書きのところで見るからに苦戦している。私は一時期アダルトスクールの中国語のクラスに通っていたのだが、そこで先生が黒板に「入口」と大書して「これはどういう意味でしょう?」と問うたとき、みんな悲しい顔で「No idea.」だったのが何だかシュールでおかしかった(正解はもちろん「Entrance」)。

授業で習った新単語の例。日本語から類推できる単語もあれば、まったく違っているのもある。

<千本ノック感>
 UCバークレーはもともと授業の厳しいことで有名であるが(気違いじみているという意味合いの「Berserkeley」なる言葉があるくらいだ)、このクラスも例外ではない。
 具体例を挙げると、

・ 語彙の宿題 (Webベース)
・ 文法の宿題 (紙ベース)
・ 漢字書き取りの宿題 (紙ベース)
・ 発音レッスン (30分。週5回の授業とは別枠。3~5名のセミプライベートで、発音だけをひたすら特訓する
・ Writingのテスト (約10分。紙ベース)
・ Listeningのテスト (約20分。Webベース。TOEFL iBTのような設問に答えていく)
・ Speakingのテスト (約10分。Webベース。これもTOEFL iBTと同様、マイクに吹き込んだ録音をネイティブが採点する。発音が少しでもマズいと容赦なく減点されていく)
・ 中国語劇のテスト (2,3名のチームを組み、自ら書いたスクリプトを暗記して皆の前で発表する。発音を間違えるたびに減点。暗記できなかったら大幅減点)
・ 総合テスト  (約50分。Reading/Listening/Writingが問われる)

などが、それぞれ週1~2回の頻度で課せられる。この「千本ノック感」はただごとではない。

 苦労したぶん、上達の実感もひとしおだ。私がこの9週間で学んだ語彙は300程度、文法は「Yes-No疑問文/5W1H疑問文/if/but/助動詞/過去(完了)形/未来形」といったあたりだ。日本の英語教育でいえば、中学2年生相当になるだろうか。
 特に大きいのは、「これである程度なら中国人とコミュニケーションが取れるぞ」という自信が得られたことだ。まあ、それはあくまで限定的な自信であって、実際のところは錯覚に近いかもしれない。でもそういうポジティブな感情があるだけで、外国語を学ぶ苦労も吹き飛んでしまうというものだ(しばしば吹き戻ってくるけど)。

UCバークレー東アジア図書館で借りた「日本休闲漫画 滑稽人 1」(中国民族摄影艺术出版社)より抜粋。麻雀という共通文化があってこそ伝わる笑いですね。「フリテンくん」 ⇒ 「滑稽人」という翻訳もなかなか味わい深い。でもこの本、翻訳者(周炜)や日本の出版元(竹书房)は明記されているのに、肝心の植田まさし先生の名前が見当たらないのはなぜだろう・・・?

<3つの要素>
 中国語を学びはじめて、改めて実感したことがある。それは、語学学習には

い. 毎日やる
ろ. たのしくやる
は. 声に出してやる

の3つが肝要ということだ。語学学習について一家言を持つ人は多く、何とかラーニングとか、何とかメソッドとか、見渡してみれば実にいろいろな商売・・・もとい学習法があるけれど、突き詰めれば結局これなんだ、と私は思う。
 「声に出してやる」については、息子によく中国語で話しかけることにしている。それなりに反応があって、おもしろい。彼がはじめて話す言葉は、もしかしたら「ママ」じゃなくて「妈妈」かもしれない。

2013/10/11

読書となると話はどこからでもはじまること

 留学してよかったと思うことはたくさんある。その上位に位置するのは、ゆっくり本を読む時間が取れるようになったことだ。

 以下は、私が主に春学期と夏休みにかけて読んだ本である。

赤瀬川原平 「ピストルとマヨネーズ」
阿佐田哲也 「ああ 勝負師」
池澤夏樹 「ハワイイ紀行」
岩城宏之 「指揮のおけいこ」
伊坂幸太郎 「死神の精度」
老川慶喜 「日本経済史 太閤検地から戦後復興まで」
大江健三郎 「万延元年のフットボール」
大野健一 「途上国ニッポンの歩み 江戸から平成までの経済発展」
岡島成行 「アメリカの環境保護運動」
小川洋子 「海」
小川洋子 「ブラフマンの埋葬」
小川洋子 「夜明けの縁をさ迷う人々」
小川洋子 「物語の役割」
小川洋子 「みんなの図書室」
恩田陸 「図書室の海」
開高健 「パニック・裸の王様」
開高健 「屋根裏の独白」
開高健 「破れた繭 耳の物語*」
開高健 「夜と陽炎 耳の物語**」
開高健 「日本人の遊び場」
開高健 「知的な痴的な教養講座」
開高健 「開高健の前略対談」
加藤敏春 「スマートグリッド革命」
紀田順一郎 「日本のギャンブル」
木山捷平 「木山捷平全詩集」
今野敏 「果断 隠蔽捜査2」
今野敏 「疑心 隠蔽捜査3」
坂手洋二 「天皇と接吻」
佐渡裕 「僕はいかにして指揮者になったのか」
猿谷要 「ハワイ王朝最後の女王」
庄野潤三 「ガンビア滞在記」
城山三郎 「甘い餌」
城山三郎 「男たちの好日」
城山三郎 「硫黄島に死す」
城山三郎 「外食王の飢え」
城山三郎 「勇者は語らず」
城山三郎 「臨3311に乗れ」
城山三郎 「冬の派閥」
鈴木直次 「アメリカ産業社会の盛衰」
長谷川四郎 「鶴/シベリヤ物語」
高杉良 「バンダルの塔」
高杉良 「局長罷免 小説通産省」
谷川俊太郎 「はだか」
筒井康隆 「わたしのグランパ」 【再読】
中谷巌 「資本主義はなぜ自壊したのか」
西川美和 「その日東京駅五時二十五分発」
野口悠紀雄 「金融工学、こんなに面白い」
谷崎潤一郎 「少将滋幹の母」
谷崎潤一郎 「蓼食う虫」
半藤一利 「日本型リーダーはなぜ失敗するのか」
古井由吉 「槿」
星新一 「夜明けあと」
町田康 「東京飄然」 【再読】
松井博 「企業が『帝国化』する」
松田道雄 「定本 育児の百科」
丸山健二 「水に映す 12の短篇小説」
丸山健二 「イヌワシ讃歌」
三和良一 「概説日本経済史」
村上春樹 「ねむり」
村上春樹 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
村上春樹 「羊をめぐる冒険」 【再読】
村上春樹 「ダンス・ダンス・ダンス」 【再読】
村上春樹 「アンダーグラウンド」 【再読】
村上春樹 「約束された場所で」 【再読】
村上春樹 「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」 【再読】
村上龍 「半島を出よ」
村上龍 「空港にて」
毛利子来 「育児のエスプリ 知恵の宝石箱」
柳井正 「現実を視よ」
横山明彦 「スマートグリッド」
綿矢りさ 「夢を与える」
アルジャーノン・ミットフォード 「英国外交官の見た幕末維新」
ウォルター・アイザックソン 「スティーブ・ジョブズ」
カズオ・イシグロ 「夜想曲集」
カズオ・イシグロ 「女たちの遠い夏」 【再読】
サイモン・シン 「フェルマーの最終定理」
スチュアート・ダイベック 「シカゴ育ち」
バラク・オバマ 「合衆国再生」
ヒラリー・クリントン 「村中みんなで」
リチャード・スミス 「カラカウア王のニッポン仰天旅行記」
リチャード・ルメルト 「良い戦略、悪い戦略」
ロバート・ハイルブローナー 「入門経済思想史 世俗の思想家たち」
ロバート・ライシュ 「勝者の代償」
グレゴリー・マンキュー 「マンキュー経済学 ミクロ編」
グレゴリー・マンキュー 「マンキュー経済学 マクロ編」
ジョセフ・スティグリッツ 「公共経済学」
ダン・アリエリー 「ずる 嘘とごまかしの行動経済学」
ダニエル・カーネマン 「心理と経済を語る」
ミルトン・フリードマン 「資本主義と自由」
Dona Wong 「The Wall Street Journal Guide to Information Graphics」
Catherine Smith 「Writing Public Policy: A Practical Guide to Communicating in the Policy-Making Process」
Paul Collier 「The Bottom Billion: Why the Poorest Countries are Failing and What Can Be Done About It」
Sun Tzu 「The Art of War」
Fereidoon Sioshansi 「Smart Grid」
Marilyn Nemzer 「Energy for Keeps: Creating Clean Electricity from Renewable Resources」
Patricia Gosling 「Mastering Your PhD」
Robin Weiss 「The Better Way to Care for Your Baby」
Joseph Stiglitz 「The Price of Inequality: How Today's Divided Society Endangers Our Future」

 相変わらず洋書の数が少ないけれど、まあ、いろいろと読んだものである。これはおそらく、息子が生まれてから、映画やダンスや展覧会やコンサートに出かけなくなったからだろう。

 読書の長所は、どこでもたのしめることだ。喫茶店でも、公園でも、電車でも、飛行機でも、海でも、山でも、お風呂でも、トイレでも(やめた方がいいけど)、あなたの心さえオープンならば、基本的に場所を選ばない。ここまで自由で奥の深い娯楽(あえて娯楽と呼びたい)って、そうあるものではない。いまさらながら、そんなことを思ったのであった。


開高大兄が狐狸庵先生に寄贈して、そのウン十年後、狐狸庵先生がUCバークレーに寄贈して、またそのウン十年後、いま私がこの本を手にしている。それだけで、もう、嬉しくて仕方がない。

(2014年3月17日追記: ほかにも多くの作家が遠藤周作に署名本を寄贈している。私が見つけたのは、丸谷才一「たった一人の反乱」、中上健次「枯木灘」、北杜夫「楡家の人びと」、水上勉「片しぐれの記」、安岡章太郎「走れトマホーク」、小島信夫「月光」、唐十郎「安寿子の靴」、大江健三郎「ピンチランナー調書」、村上龍「限りなく透明に近いブルー」。文学好きにはシビれること請け合いだ)

東アジア図書館の日本語資料はかなり充実している。その経緯は、国立国会図書館月報の記事で詳しく紹介されている。なるほど、古くて怪しい本がたくさんあるわけだ。「變態浴場史」とかね。


 読書となると、話はどこからでもはじまる。

 今回は、本にまつわるあれこれについて、いつも以上に取りとめなく書いてみたい。




<日本語の本の入手方法>
 上に挙げた日本語の本を、私がどのようにして入手したのか。興味ある読者のために、いくつかのパターンに分類してみた。

パターン1: 紀伊国屋書店
 サンフランシスコのジャパン・タウンには、漫画から専門書まで品揃え豊富な紀伊国屋書店があって、ベイエリア在住の多くの日本人を惹きつけている。電話で取り置きもしてくれるので、どうしても発売日に読みたい本(例:多崎つくる)を読むには最適な手段である。
 難点は、定価よりも高いことだ。送料なのか手数料なのかはわからないが、日本で買う値段の約5割増し。これを独占市場の弊害と見るか、まあ異国で買うんだから仕方ないと見るか、このあたりは見解の分かれるところだ。ちなみに、ホノルルの新刊書店も同様の相場観だった(ホノルルではむしろブックオフにお世話になった)。

パターン2: Amazon.co.jp
 日本向けのAmazon.co.jpを使って、海外の住所まで届けてもらうという手もある。難点は、送料がすこぶる高いことだ(国際エクスプレス便だと3,000円もする)。勉強のためにどうしても欲しい本(例:マンキュー経済学)を除けば、なかなか取りづらい選択肢ではある。

パターン3: 友人
 持つべきものは友人というのは本当だ。彼らがバークレーを訪れる機会を捉えて意中の本を買ってきてもらう(例:資本主義と自由)こともしばしばあった。その御礼として、読み終わった蔵書を友人たちに押しつけ・・・もとい、差し上げたりした。本は天下の回りもの、である。
 ちょっと変則的なケースとして、映画監督の友人から映画祭出品作品の字幕翻訳を頼まれて、その報酬のかわりに本を送ってもらう(例:心理と経済を語る)ということもあった。

パターン4: 図書館
 ある種の人々にとって、図書館とはオアシスのようなものだ。バークレーの公共図書館については以前に書いたのでここでは割愛するが、実は大学の東アジア図書館も多くの日本語書籍を有している。大学院生の貸出期間は3カ月という天国的な長さで、私も大いに利用している(例:天皇と接吻)。
 東アジア図書館はモダンな東洋風味の建物で、壁一面の窓からの眺望がすばらしい。GSPPからもほど近く、自習場所としても最適だ。日本語書籍のエリアに近づかないよう留意する必要はあるけれど。


ホノルルとバークレーの公共図書館の貸出カード。どちらも素敵なデザインだ


<二冊の推薦本>
ミルトン・フリードマン 「資本主義と自由」 (日経BP社クラシックス)
 経済学というのは、ある意味で、「市場に任せろ」派と「政府にやらせろ」派の絶え間なき戦いによって発展してきた学問である。そしてこの本は、「市場に任せろ」派の中で、最も有名な古典と言えるだろう。
 まあ古典とはいっても、たとえば「オイディプス王」(約2,400年前)や「プリンキピア」(326年前)と比べれば、51年前に書かれた「資本主義と自由」はずいぶん新しい(経済学というのは若い学問なのだ)。しかし、古典の名に恥じない風格を、この本はすでに有している。
 フリードマンさんはかなりトンがった方であったようで、「20世紀で最も偉大な経済学者」から「異端児(Maverick)」まで、呼び名の振れ幅はまことに大きい。しかし本書を読む限り、この人の凄さは、「明晰な論理」と「平易な説明」という2つの武器の、その見事な研ぎ澄まされぶりにあると思う。
 本書の議論は、現在進行形のものとして、2013年の読者の胸にもしっかり響く。むしろ一周して新しく感じられる箇所もあるくらいだ(職業免許制度の廃止の議論は私には新鮮だった)。氏の主張に与するか否かはさておき、その輝きはもう認めるしかないんじゃないか。
 数式もないし、翻訳もわかりやすいので、公共政策学を勉強される方には一読を薦めたい。「無脊椎動物でもわかる経済学」的な本を読むよりは、たぶんずっと有益だと思う。意欲的な方は、ぜひとも原書にご挑戦あれ。

リチャード・ルメルト 「良い戦略、悪い戦略」 (日本経済新聞出版社)
 著者は、UCバークレーで電気工学の修士を取得 → システムエンジニアとして航空宇宙局(NASA)のジェット推進研究所(JPL)に勤務 → ハーバードビジネススクールで博士号を取得 → UCLAビジネススクールの教授(兼コンサルタント)という経歴を持つスゴイ人。経営戦略学会の創立メンバーでもあり、マイケル・ポーターと並び称されるような経営戦略論における大家中の大家なのだが、一般向けに書かれた本としてはこれが初めてということだ。
 この本の魅力は、簡潔な言葉で本質を突き刺す、鋭くも心地よい筆致にある。たとえば、IKEAの経営戦略の優れた点について、筆者はこのように説明している。

 ・・・鎖構造になった問題を解決するためには、強力なリーダーシップと計画的な取り組みが必要である。逆に言えば、強力なリーダーシップにより巧みに鎖構造を作り上げてしまえば、容易にはまねできなくなる。
 ここでは、スウェーデンの家具メーカー、IKEAを考えてみよう。同社は1943年に設立され、直営店を通じて手ごろな価格の組立家具を販売している。駐車場を完備した巨大な店舗を郊外に展開し、広々としたスペースで豊富な選択肢の中から選べるのが特徴だ。店員の数は少なく、代わりにカタログが充実している。組み立て前の家具は平たくパックできるので、場所をとらず、運送費も保管料も少なくて済む。また店内に在庫品を置いておけるので、顧客はそこから選んで家まで持ち帰ることができ、配送されるのをイライラして待つ必要がない。家具のデザインはほとんどが自前だが、製造は外注である。しかし全世界に展開するロジスティクスは同社が管理している。
 こうしたさまざまなプロセスの効率的な組み合わせこそがIKEAの戦略と言える。だがこの戦略は、秘密でも何でもない。なぜ他社がこれをまねしたり、さらに良いシステムを考え出したりしないのだろうか。同社が世界最大の家具メーカーの地位と評判を守りつづけているのは、彼らの戦略が鎖構造を形成するものだからである。
 IKEAの方針はどれ一つとっても家具業界では異色であり、しかもそれらが緊密に一体化している。たとえば伝統的な家具店では大量の在庫は抱えない。伝統的な家具メーカーは自ら販売はしない。通常の家具店は自分でデザインはしないし、店員の代わりにカタログで済ませるなどということもしない。このようにIKEAのやり方はひどくユニークなうえに、それらが組み合わされて鎖構造を形成しているので、どれか一つをまねするだけでは効果が得られないのである。一つか二つをまねしても、コストが余計にかかるだけで、IKEAに対抗することはできない。既存の業者が本気でIKEAに対抗するにはゼロから事業を設計しなおす必要があり、そうなれば自分の店と共食いになってしまうだろう。だから、誰もやらない。IKEAが颯爽と登場してから55年になるが、いまだに第二のIKEAは現れていない。

 どうだろう。IKEAのビジネスモデルがいかに独創的で、かつ安易な模倣を許さないものであるか、すっと伝わってくる文章ではないだろうか。(本文ではこの後「IKEAが今後も競争優位を維持するための3つの条件」について述べているが、ここでは省略)

 本書のもうひとつの特徴は、好例も悪例も、等しく実名を挙げている点だ。たとえば、良い例として、エヌビディア、パッカー、トヨタ、セブンイレブン・ジャパンなどが紹介されている一方で、ダメな例として、アメリカ国防総省、コーネル大学、ロサンゼルス統合学区、GM、AT&T、NECなどが、どこがどのようにダメなのかを含めて、遠慮斟酌なく俎上に載せられている。
 「ここまで書いちゃって、将来の顧客との関係とか大丈夫なの?」と、読んでいてこちらが心配になるくらいだ。

 戦略とは、目標でも「あるべき論」でもスローガンでもない。それは、具体的な課題を前にして、現実的に取るべき行動を示すものでなければならない。

 これが、著者の主張のひとつである。きわめて明快なスタンスだ。しかし、それができていない事例のいかに多いことか(私はここでルメルト教授のように具体例を挙げる勇気を持たないけれど)。
 「無脊椎動物でもわかる戦略思考」的な本を山ほど読んだけど結局何も身につかなかったという人は必読。むやみに「戦略」という言葉を連呼する輩や組織に疑問を感じたことのある人も必読。私はどちらもあてはまっていたので、MBAの授業ひとコマぶんくらいの価値があった。




<翻訳者・村井章子さん>
 これは後になって気づいたことだが、上に挙げた二冊の本は、ともに村井章子さんの手による翻訳であった。そう思って読み返してみると、専門的な内容を多分に含みながら、日本語の流れがとても自然で、それでいて翻訳者のエゴが変に前に出てこない。かなりの手練の仕事である。この人の翻訳でなければ、二冊ともここまで感銘を受けたかどうか。
 村井章子さんの名前は、寡聞にしてこれまで知ることがなかったけれど、今回、「この人の翻訳なら読んでみようか」という気持ちになった。経済・ビジネスの分野でそうした翻訳者に出会うのは私にとって初めてのことで、とても嬉しい。
 ためしに村井さんの他の作品(つまり翻訳)を調べてみると、「ミル自伝」、「コンテナ物語」、「金融工学者フィッシャー・ブラック」、「マッキンゼーをつくった男 マービン・バウワー」、「収奪の星 天然資源と貧困削減の経済学」などとある。むむむ、どれも私の関心領域に引っかかってくるタイトルだ。帰国したらぜひ手にとってみよう。




<級友たちのおすすめ本>
 夏休みがはじまる直前、チーム・ブラザンビークの一員だったエヴァンの発案により、GSPPの有志による「たのしみのためのリーディングリスト」をつくることになった。
 その呼びかけの文章がなかなか奮っているので、ここに転載したい。

 I like to read, that is, I read for pleasure. But like you, I haven't had much chance to do so these past few months. Now that summer is upon us, and our less-than-pleasurable reading load is substantially diminished, I'm looking to get back into the habit. Since you are all such smart, charming, interesting people, I thought it'd be nice to have a place where we can share our favorite books with one another, so that we can maximize efficiency and address information asymmetries in our hunt for good summer reading.

 以下に示すのが、そのラインナップだ。本好きの方は唸られるのではないか。私もすべてを読んだわけではないが、「イマジナティブでありながら、現実と切り結ぶ覚悟を持った」作品が多い印象を受けた。みんな忙しいはずなのに、ちゃんと滋養ある本を読んでるんだ。
 「GSPPの学生ってどんな人たちなの?」と訊かれたら、このリストを差し出せば足りるかもしれない。あるいは。

Alvaro Mutis 「The Adventures and Misadventures of Maqroll」
ジョン・アーヴィング 「ガープの世界」
ジュノ・ディアス 「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」
コーマック・マッカーシー 「ブラッド・メリディアン」
ジョーゼフ・ヘラー 「キャッチ=22」
アルンダティ・ロイ 「小さきものたちの神」
村上春樹 「海辺のカフカ」
ディー・ブラウン 「わが魂を聖地に埋めよ」
フランス・ベングトソン 「赤毛のオルムの冒険」
David Jonas 「Amethyst Star」
マイケル・ポーラン 「欲望の植物誌 人をあやつる4つの植物」
Sena Jeter Naslund 「Ahab's Wife」
グレゴリー・ロバーツ 「シャンタラム」
Rachel Joyce 「The Unlikely Pilgrimage of Harold Fry」
Helen Simonson 「Major Pettigrew's Last Stand」
ジェフリー・ユージェニデス 「ミドルセックス」
デイヴィッド・ミッチェル 「クラウド・アトラス」
マーク・ライスナー 「砂漠のキャデラック アメリカの水資源開発」
John Jeremiah Sullivan 「Pulphead」
デイヴィッド・ロブレスキー 「エドガー・ソーテル物語」

ちなみに、私が推薦した本は、

ガブリエル・ガルシア=マルケス 「百年の孤独」
カズオ・イシグロ 「わたしを離さないで」

の2冊だ。文学好きの方からは「うーん、ちょっとオーソドックスすぎるんじゃない?」という声が聞こえてきそうだけど(まあたしかにそうなんだけど)、読了後、私の内面に大きな不可逆変化をもたらした作品として、ぱっと思いついたのがこの2冊であった。

 ところで、「海辺のカフカ」を推薦したのは、先日奥さんのブログにも登場したタイ人の女の子です。私も4回読みました。英語版のオーディオブックも聴いてみたんだけど、ナカタさんパートの人の声が味わい深いんですよ、これが。




<愛について>
 自分の愛する本について、その情熱をシェアできる人と静かに語り合う。これは、人生における最大の喜びのひとつだ。

 人種の違いとか、宗教の違いとか、世代の違いなんてのは、愛の大きさに比べれば、まったく取るに足らないものである。

 フョードル・ドストエフスキーが、かつて私に教えてくれた。
 地獄とは何か、それはもはや愛せないという苦しみだ。




<ほしいものリスト>
 最近になって、ひとつの法則を発見した。
 読みたい本の数は、読んだ本の数を常に上回る。
 この法則、たぶん私が死ぬまで通用するだろう。

 Amazonでいうところの「ほしいものリスト」を、試みに載せてみる(今後もひっそりと追記していくつもり)。あなたのリストと重なるものは、ありますか?

阿川弘之 「井上成美」
百田尚樹 「海賊とよばれた男」
高野秀行 「謎の独立国家ソマリランド」
服部正也 「ルワンダ中央銀行総裁日記」
青山潤 「アフリカにょろり旅」
岩本千綱 「シャム・ラオス・安南 三国探検実記」
都築響一 「演歌よ今夜も有難う 知られざるインディーズ演歌の世界」
都築響一 「東京右半分」
都築響一 「独居老人スタイル」
米沢亜衣 「イタリア料理の本」
田岡一雄 「山口組三代目 田岡一雄自伝」
大川豊 「日本インディーズ候補列伝」
笠原和夫 「映画はやくざなり」
笠智衆 「小津安二郎先生の思い出」
山中俊治 「デザインの骨格」
原研哉 「デザインのデザイン」
有田泰而 「First Born」
平松剛 「光の教会 安藤忠雄の現場」
三木成夫 「内臓とこころ」
徳岡孝夫 「完本 紳士と淑女 1980‐2009」
山野良一 「子どもの最貧国・日本」
細川布久子 「わたしの開高健」
山口果林 「安部公房とわたし」
岩瀬大輔 「生命保険のカラクリ」
伊賀泰代 「採用基準」
ちきりん 「未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる」
南場智子 「不格好経営 チームDeNAの挑戦」
入山章栄 「世界の経営学者はいま何を考えているのか」
楠木建 「ストーリーとしての競争戦略」
琴坂将広 「領域を超える経営学 グローバル経営の本質を『知の系譜』で読み解く」
佐々木紀彦 「5年後、メディアは稼げるか MONETIZE OR DIE?」
佐藤優 「読書の技法」
伊集院光 「ファミ通と僕」
永田泰大 「魂の叫び」
梅原大吾 「勝ち続ける意志力」
高橋昌一郎 「理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性」
今日マチ子 「COCOON」
吉田秋生 「海街diary」
柘植文 「野田ともうします。」
伊図透 「エイス」
鳥飼茜 「おはようおかえり」
野村宗弘 「とろける鉄工所」
野村宗弘 「カタミグッズ」
小林賢太郎 「鼻兎」
吾妻ひでお 「失踪日記2 アル中病棟」
さそうあきら 「富士山」
さそうあきら 「ミュジコフィリア」
よしながふみ 「きのう何食べた?」
雨隠ギド 「甘々と稲妻」
関谷ひさし 「ストップ!にいちゃん」
グレゴリ青山 「ブンブン堂のグレちゃん」
カラスヤサトシ 「おのぼり物語」
藤子・F・不二雄 「藤子・F・不二雄大全集」(留学中に出版されたもの全部)
藤子不二雄A 「78歳 いまだまんが道を」
荒木飛呂彦 「荒木飛呂彦の超偏愛!映画の掟」
いとうせいこう 「想像ラジオ」
川上弘美 「パスタマシーンの幽霊」
沢木耕太郎 「凍」
筒井康隆 「ビアンカ・オーバースタディ」
筒井康隆 「創作の極意と掟」
石牟礼道子 「あやとりの記」
小川洋子 「原稿零枚日記」
小川洋子、クラフトエヴィング商會 「注文の多い注文書」
司馬遼太郎 「菜の花の沖」
岡本隆司 「近代中国史」
高坂正尭 「宰相 吉田茂」
猪木武徳 「戦後世界経済史 自由と平等の視点から」
上田信行、中原淳 「プレイフル・ラーニング」
金聖響、玉木正之 「ベートーヴェンの交響曲」
向井秀徳 「厚岸のおかず」
増田俊也 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」
寄藤文平 「絵と言葉の一研究 「わかりやすい」デザインを考える」
今和泉隆行 「みんなの空想地図」
浜井信三 「原爆市長」
鈴木直道 「やらなきゃゼロ! 財政破綻した夕張を元気にする全国最年少市長の挑戦」
神谷美恵子 「こころの旅」
きだみのる 「気違い部落周遊紀行」
今野浩 「工学部ヒラノ教授」
長沼毅 「辺境生物探訪記 生命の本質を求めて」
河本薫 「会社を変える分析の力」
大江健三郎 「人生の親戚」
長嶋有 「問いのない答え」
吉村昭 「零式戦闘機」
佐貫亦男 「不安定からの発想」
ドナルド・キーン 「ドナルド・キーン自伝」
マーセル・セロー 「極北」
リシャルト・カプシチンスキ 「黒檀」
サイモン・シン 「暗号解読」
ベルナール・ウェルベル 「蟻」
イエ・グワンチン 「貴門胤裔」
莫言 「白檀の刑」
レオノーラ・キャリントン 「耳ラッパ」
マリオ・バルガス=リョサ 「チボの狂宴」
ガブリエル・ガルシア=マルケス 「誘拐の知らせ」
ガブリエル・ガルシア=マルケス 「ぼくはスピーチをするために来たのではありません」
ディーノ・ブッツァーティ 「タタール人の砂漠」
ミハイル・ブルガーコフ 「巨匠とマルガリータ」
ニコール・クラウス 「ヒストリー・オブ・ラヴ」
ジョゼ・サラマーゴ 「白の闇」
イェジ・アンジェイェフスキ 「灰とダイヤモンド」
ラッタウット・ラープチャルーンサップ 「観光」
アントニオ・タブッキ 「供述によるとペレイラは・・・」
ミカエル・ニエミ 「世界の果てのビートルズ」
レイフェル・ラファティ 「九百人のお祖母さん」
ジェイムズ・ホーガン 「星を継ぐもの」
アルブレヒト・ヴァッカー 「最強の狙撃手」
ヘンリー・キッシンジャー 「キッシンジャー回想録 中国」
アルトゥール・ルービンシュタイン 「ルービンシュタイン自伝」
リー・アイアコッカ 「アイアコッカ わが闘魂の経営」
クラウディオ・マグリス 「ドナウ ある川の伝記」
シンシア・スミス 「世界を変えるデザイン ものづくりには夢がある」
ジャレド・ダイアモンド 「昨日までの世界 文明の源流と人類の未来」
ダニエル・マックス 「眠れない一族 食人の痕跡と殺人タンパクの謎」
セオドア・グレイ 「世界で一番美しい元素図鑑」
リチャード・ムラー 「サイエンス入門」
レドモンド・オハンロン 「コンゴ・ジャーニー」
ポール・セロー 「ダーク・スター・サファリ」
オノレ・ド・バルザック 「役人の生理学」
ブランコ・ミラノヴィッチ 「不平等について 経済学と統計が語る26の話」
ジョン・クイギン 「ゾンビ経済学 死に損ないの5つの経済思想」
ダロン・アセモグル 「国家はなぜ衰退するのか? 権力・繁栄・貧困の起源」
ショーン・ウィルシー 「ああ、なんて素晴らしい!」
マーヴィン・ハリス 「食と文化の謎」
エイモリー・ロビンス 「新しい火の創造」
ジョゼフ・キャンベル 「千の顔をもつ英雄」
アレン・ネルソン 「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」
マルクス・アウレーリウス 「自省録」
ポール・タフ 「成功する子 失敗する子 何が『その後の人生』を決めるのか」
ジョン・ケイ 「想定外 なぜ物事は思わぬところでうまくいくのか?」

(2013年10月20日追記:「不格好経営 チームDeNAの挑戦」は、バークレー漂流教室でNさんが貸してくれました。ありがとう、Nさん!)

(2013年11月2日追記:「デザインのデザイン」と「理性の限界」は、バークレーを訪問されたブログ読者のTさんから頂戴しました。Tさん、感謝です!)

(2013年11月20日追記:「内臓とこころ」と「子どもの最貧国・日本」は、バークレーを訪問されたブログ読者のOさん夫妻から頂戴しました。ありがとうございました!)

(2014年3月13日追記:「灰とダイヤモンド」は、バークレーに短期滞在されているブログ読者のKさんから頂戴しました。読ませていただきます!)
 

2013/10/04

【JGRB】 第1回「バークレー漂流教室」のお知らせ

新入生歓迎会の成功で勢いづいたJGRB、今度は、「バークレー漂流教室」と題する勉強会を開きます。モデレーターは、不肖、私が務める予定です。

「開発学は素人なんだけど・・・」というあなた。心配いりません。私も素人です。
バークレーに流れる自由な「知」の空気を、一緒にたのしみましょう!

案内メールが既に届いている方は登録不要ですが(そちらのメールにご返信ください)、そうでない方も、気兼ねなく私までご連絡ください。

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バークレー漂流教室:  第1回 全方位の開発学

経済学から伝統智まで、およそ考えつくあらゆる専門領域と関わりを持つことから、「全方位の学問」と言われる開発学(出所:Satoru)。

多彩なバックグラウンドを持つ皆さんが集まって、切り込んでみたら、またひとつ、新しい風景が見えてくるかもしれません。

初心者、大歓迎。
独自の視点、熱烈歓迎。
ゆるく、たのしく、でも志は高く、開発学への登攀を目指します。

日時: 10月19日(土)12時~14時頃
場所: Goldman School Public Policy, Room 105 (地図はこちら)
参加費: $5 (ピザと飲み物をご用意する予定です)
スピーカー: 開発学に造詣の深い日本人3名 (予定)

ご参加希望の方は、

 1.氏名/所属
 2.(もしあれば) 開発学に関する研究/仕事の内容 
 3.(もしあれば) 開発学に関して興味深く思っていること、最近読んだおもしろい本など

の項目を添えて、当方までお申し込みください。




(2013年10月21日追記)
開発学関係者はもとより、「門外漢サイド」からも、法曹界から医学界まで、幅広く才智ある人たちに集まっていただきました。おかげで、刺激的な(刺激的すぎてちょっとここには書けないような)お話をたくさん伺うことができました。

ご参加いただいた方々に、改めて御礼を申し上げます。
このイベントの成功は、留保なく、皆さまのおかげです。


準備中にGSPPのヘンリー学長が来て、「Berkeley Drifting Classroom?なんだ、そりゃ」と首を傾げてたのがおもしろかった。ま、そりゃわからないわな。

当初の予定は2時間だったけど、結局3時間半も費やしてしまった。これは司会である私の責任です。すみません。

はじめに、スピーカー以外の参加者から簡単に自己紹介をしてもらった。「参加者の多様性をどこまで確保できるか?」という当初の懸念は、この段階で心地よく吹き飛んだ。

次に、開発学に造詣の深い3名(大学教授、開発機関職員、NPO職員)から、「わたしの歩んだ道」に関するお話。皆さん「漂流教室」の趣旨をご理解くださり、たのしい裏話をいろいろ語っていただいた。(全20枚にわたる各スピーカーのスライドは省略)

第2部では、各スピーカーから事前に募った「常々思っていること/他のお二方&参加者に聞いてみたいこと」を肴として、ゆるめのディスカッションを行った。

大学で長年研究をしていて、「これって一体何の役に立っているの?」とふと自問したMさんからの質問。その回答として、「影響評価などの学問的な裏付けはプロジェクトの予算獲得の根拠となる。また、関連論文が米国政府のGAO(Government Accountability Office)やCBO(Congressional Budget Office)に引用されると、それは担当者にとって大きな『後ろ盾』となる」など。

開発機関で長年勤務してきたUさんからの質問。アカデミック寄りの参加者からは、「使ってるよ」の声と、「正直、あんまり・・・」の声が、およそ半々。活用を難しくしている要因として、「検索作業の煩雑さ」と「データの信頼度の低さ」の2点が主に挙げられた。
「データの信頼度の低さ」については、世銀の能力云々というよりも、最貧国で統計データを得る行為自体の難しさについて言及された。国によっては「データでっちあげビジネス」のような闇商売も横行しており、データの真偽を見分けるのはきわめて難しいとの指摘もあり。

これは私からの質問。最近読んだPaul Collierの「The Bottom Billion」では、いつまでも経済成長できない最貧国の共通要因として「1.紛争の罠」「2.天然資源の罠」「3.悪い統治の罠」「4.悪い隣国の罠」という4つの項目が指摘されている一方、Dani Rodrikの「One Economics, Many Recipes」では、途上国で経済成長がうまくいかない要因として「高すぎる資金調達コスト」や「低すぎる事業収益」などを掘り下げ、国ごとに特有のボトルネックを見つけ出すという成長診断(Growth Diagnostics)アプローチを提唱している。私はどちらの主張にも一定の理があると思うけれども、実際の線引きはどうなっているかというところに興味があった。
もちろんこれは、一朝一夕に答えの出る問いではない。さまざまな立場から、さまざまな意見が寄せられた。その中で個人的におもしろく思ったのは、「南アジアや北アフリカといった単位でいえば、地域特性は明確にある。あるいは、狩猟文化 or 農耕文化というカテゴリの分け方もある」と、「Aの政策とBの政策を組み合わせたらうまくいきやすい、といった経験知のようなものが開発機関には蓄積されている」という2つのコメント。

ヒマラヤの小さな村で1年暮らしたOさんからの、開発学の根幹に迫る質問。「経済成長は本当に善なのか?」 ⇒ 「問題意識はわかるけど、『物はなくても心は豊か』なんてセリフは、明日の飯にも困っている人たちの胸に本当に響くのか?」とか、「100年先を見据えた大局的な開発計画が必要なのではないか?」 ⇒ 「それが行き過ぎると計画経済になっちゃうんじゃないか?」とか、開発学を志した人なら誰しも一度は突き当たるであろう問題を、改めて議論した。