2013/12/31

2013年の秋学期を完走したこと

 選択科目だけで構成される2年目の秋学期は、人によってはいちばん負担の少ないセメスターだ。ここを先途と旅行しまくる輩もいれば、GSI(Graduate Student Instructorの略で、UCバークレーにおけるティーチング・アシスタントの名称)をして学費を稼ぐ輩もいる。実にいろいろなものである。

 しかし私には、今学期は最も苦しい学期であった。たとえて言うなら、走り込みが不足したまま出場してしまったフルマラソン・レースのようなものである。10kmあたりで危機感が芽生え、20kmあたりで足運びが重くなり、30kmあたりからはもう地獄であった。
 その理由は何か。2点だけ挙げるなら、

1. 授業を必要以上に取りすぎたから。
2. 赤ン坊の夜泣きがひどかったから。

ということになる。

 前者について、学期の当初は後述する5授業のほか、興味のおもむくままに「行動経済学」「技術とイノベーションの経済学」「第二次世界大戦以降の世界史」の合計8授業を取っていたのだが、さすがに無理があり、早々に破綻した。曜日によっては1日14時間も授業があって、まあ落ち着いて考えれば破綻しない方がおかしいのだが、しかしアホというのは落ち着いて考えることができないからアホなのである。

 後者について、私の赤ン坊はかなり手のかかる赤ン坊で、夜半は約2時間おきに目覚め、天地が張り裂けるような泣き声を上げるのであった。意識朦朧としながら30分ほど抱っこして、ようやく寝息が聞こえてきて、慎重に、この上なく慎重に布団に置いた途端、何かのスイッチが入ったようにギャン泣きされたときの絶望感。人生に新たなコクが加わった。
(奥さんのコメント: まあ実際に寝かしつけてたのはほとんど私なんですけどね。困りましたね)





<中国語 (Elementary Chinese)>
 選択科目。週5.5時間。本授業については以前の記事で紹介したとおりだが、その後も千本ノックに耐え抜き、意外にも好成績でゴールテープを切ることができた。「できないことができるようになった」という意味では、今学期で最も達成感のある授業であった。
 どの程度まで上達したかを示すために、ダイアローグ暗唱の宿題で私が作文したものを以下に載せる。中国語の分かる方は表現の未熟さをお笑いいただき、お分かりにならない方も「どことなく意味が通じる感じ」をお楽しみいただければ幸いである。

---
A: 寒假要到了,你们要做什么?
B: 我只想看书,买衣服,复习中文课。我没有特别的事情。
C: 我要去韩国。我每年都回家。
A: 太好了!我觉得韩国菜挺好吃。你怎么去机场?
C: 我想坐地铁或者开车。你知道怎么走吗?
A: 虽然我不知道高速公路,但是我可以告诉你坐地铁。你先坐红线,再换黄线。我觉得不麻烦。懂不懂?
C: 懂。谢谢!
A: 别客气。
B: 如果你要的话,我就开车送你去吧。
赵慧玲: 是吗?谢谢你。
B: 不用客气。飞机票你买了吗?
C: 已经买了。不过,我要换它。
B: 为什么?
C: 因为我买错了。今天下午我要去一个商店。
B: 你到韩国的时候,给我们发短信。再见!
A, C: 再见!

(at the ticket shop)
D: 小姐,您要买什么票?
C: 对不起,我昨天买了这个票,可是这日期是错的。能不能换一个?
D: 对不起,我们只能换十二月二十日的票。不过,这个的价钱跟你的一样,您不用再付钱了。好吗?
C: 没问题。谢谢!
D: 别客气。
---

中国語のサイトを閲覧するようになったら、Googleの広告も中国語になった。「人生苦短」という、出会い系サイトにしては暗めの惹句が独自の味わいを醸している。


<費用便益分析 (Benefit-Cost Analysis)>
 週4時間(グループワークを加えると実質的には週10時間以上)。選択科目だが、定量分析で名声の高いGSPPにおいて費用便益分析は必修に近いと思っていたので、今学期最も履修したかった授業である。
 費用便益分析とは、プロジェクトがもたらす影響を「費用」と「便益」に分けて、その多寡を評価するプロセスのことである。と、これだけの説明だと各項目を金銭価値に換算するだけの簡単なプロセスのように思われるが(実際私もそう思っていたのだが)、これがなかなかどうして奥が深く、少なくとも統計学とミクロ経済学の知識は必須である。
 クラスでは、Primary & Secondary Markets, Social Discount Rate, Horizon Value, Monte Carlo Simulation, Sensitivity Analysisなどの理論と実践を学ぶが、本授業のハイライトはむしろ学期全体を通じたグループワークだ。分析テーマは完全に自由、3~4人のチームを組んで最終的に政策提言をまとめるというあたりは、前学期の必修科目「政策分析入門」と似ている。膨大な作業量も含めて。
 ここで先輩やクラスメートのテーマ例を挙げると、

・ベイエリア(サンフランシスコ周辺地域)にガソリン税を導入したときの費用&便益

・H-1Bビザ(専門職の就労ビザ)の料金を値上げ/値下げしたときの費用&便益

・ハワイ州の公立学校に教育用ノートPC/タブレットを配布したときの費用&便益

・フェニックス(アリゾナ州の州都)の低所得者向けに太陽光発電設置補助金を導入したときの費用&便益

・ウランバートル住民に高効率クックストーブを配布したときの費用&便益

・ケニアでメンタルヘルス向けバウチャーを導入したときの費用&便益

といった具合に、公共政策学の所掌の広さを再認識できる多様ぶりである。
 これは来学期の修士論文(Advanced Policy Analysis)についても言えることだが、先輩方が執筆したペーパーを参照していると、優秀なものはそのまま市場に出しても十分通用しそうな(1,000万円くらいの委託契約の成果物としても通用しそうな)レベルである。GSPPというのはやはり大したものなんだと改めて実感した。

 さて、私のグループのテーマは、

・中国でコジェネレーション(CHP: Combined Heat and Power)対象の固定価格買取制度(FIT: Feed-in Tariff)を導入したときの費用&便益

というものであった。
 これは、コジェネレーション(以下、CHP)推しの中国人のクラスメートと、固定価格買取制度(以下、FIT)推しの私とのある種の折衷案として生み出されたものであるが、両者の難所を斟酌せずにそのまま合体させてしまったのはいささか無謀で、いわば初めてプレイするゲームの難易度をいきなり「VERY HARD」に設定したようなものであった。

 難所1。中国の統計資料が絶対的に少ない。中国語でしか読めない資料もたくさんある。
 難所2。FITの経済効果を分析した論文が少ない。特に、買取価格と電力量の関係について考察したものはほとんど皆無に近い。
 難所3。中国政府はCHP対象のFITを導入していないので、拠って立つ前例が存在しない。

 どうだろう。なかなかの「VERY HARD」っぷりではないだろうか。逆に言うと、中国のCHP政策についてこうした切り口で分析したペーパーは(少なくとも私の知る限り)世界のどこにもないわけだから、その「切り開いている」感はかなりのものであった。


固定価格買取制度(FIT)とは、ある特定の電力(多くは再生可能エネルギーによるもの)に対して、通常の電気料金より高い買取価格(Tariff)を設定し、一般家庭や事業者が発電したものを電力会社に売れるようにする仕組みのこと。REN21(Renewable Energy Policy Network for the 21st Century)によれば、2013年時点で71ヶ国がこの制度を採用しているという。日本でも2012年に実施され、ソフトバンクや日本製紙などが参加を表明している。
図の出所:資源エネルギー庁「再生可能エネルギーの固定価格買取制度について」(2012年)

コジェネレーション(CHP)とは、熱源(多くは排熱)から電力と熱を同時に供給するシステムのこと。化石燃料を使うケースが多いため再生可能エネルギーのカテゴリからは外れるが、そのエネルギー利用効率の高さから次世代のエネルギーとして注目されている。
表の出所:米国エネルギー省「Combined Heat and Power: A Clean Energy Solution」(2012年)を基に筆者作成


 英文にして5万字近い分量の最終報告書を短く要約するのは至難のわざだが、ここに100字以内での説明を試みよう。

【ステップ1】 買取価格を「x」としたときの総発電量を、xの関数「y=f(x)」で表す。
 具体的には、まず国内産業セクターの排熱量のうちCHPに利用可能な総量を推定し、その温度ごとに効率性が(ということはCHPのLevelized Costが)異なることに着目して、単回帰モデルを組み立てた。

 おっと、早くも125字を使ってしまった。やっぱり100字以内というのは無理がありましたね。すみません。
 でも懲りずに続けると、

【ステップ2】 費用&便益の各項目を、yの関数(ということはxの関数)で表す。
 費用の一例として、課税によって生じる死荷重(Deadweight Loss)。
 便益の一例として、二酸化炭素やPM10などの削減効果。

【ステップ3】 「便益の現在価値の総和」から「費用の現在価値の総和」を引いた値(Net Benefit)が、どの買取価格(x)で最大になるかを求める。
 「Net Benefitは買取価格が0.50人民元/kWh(≒8.63円/kWh)のとき最大になる」というのが本分析の結論(ちなみに中国の太陽光発電向けFITの価格は0.90~1.00人民元/kWh)。加えて、試算に用いた各パラメータ(例:二酸化炭素1トンあたりの金銭的価値)の変動が全体に与える影響について、Monte Carlo Simulationなどを用いて評価した。

ということになる。専門用語がちらほら混じって申し訳ないけど、おおよその雰囲気だけでも感じ取っていただけたら嬉しい。願わくば、費用便益分析の面白さについても。
 
 本授業の担当は、GSPPの若手エースとも評すべきDan Acland教授。昨年の秋学期に受講したミクロ経済学でもそうだったが、親切心と熱意を兼ね備え、生徒の評価も非常に高い。教科書は、この分野では名高いAnthony E.Boardmanの「Cost-Benefit Analysis: Concepts and Practice 4th ed」を使用した。全体を通じて今学期で最も負荷の高い授業だったが、最もスキルを学んだ授業でもあった。



<開発経済学 (International Economic Development Policy)>
 選択科目。週2時間。開発経済学の初学者がキャッチアップするには最良のカリキュラムで、具体的には、貧困ギャップ率、ジニ係数とローレンツ曲線、コースの定理、貿易産業政策、国際通貨政策、ランダム化比較試験(RCT: Randomized Controlled Trial)、傾向スコアマッチング(PSM: Propensity Score Matching)、インデックス保険、マイクロファイナンス、条件付き現金給付(CCT: Conditional Cash Transfer)といった項目について学んだ。
 農業資源経済学部とGSPPの合同授業であるため、前学期で苦労して習得した計量経済学の知識をそのまま活用できるのは喜びであった(統計ソフトSTATAを使ったグループワークも3回あり、お腹がいっぱいになった)。というか、開発経済学って計量経済学を最も駆使する分野のひとつだったんですね。たとえば、「Aの村にはワクチンを配布するけど、Bの村には配布しない。数年後、双方の村人たちには統計的に有意な差が見られるか?」みたいな趣旨の研究がたくさんあって、「それって倫理的にどうなの?」と思わないでもないけれど、開発経済学というのはそういう社会実験ができる余地の大きい分野なのだろう。良きにしろ悪しきにしろ。

 本授業の担当はAlain de Janvry教授。講義中にときどき英語を失念してしまう、この飄然たる老教授を私はこよなく愛する者である。個人的には、古今亭志ん生、笠智衆と並んで「思い浮かべるだけで心が和む三大おじいちゃん」の一角を占めることになった。
 テキストはAlain教授のお手製のものだが、全6回の政策メモの課題を通じて内容把握が要求される書籍は以下のとおり。開発学に造詣の深い読者(結構いらっしゃると思う)であれば、このリストを見て何かしら感ずるものがあることだろう。

Abhijit Banerjee, Esther Duflo 「Poor Economics: A Radical Rethinking of the Way to Fight Global Poverty」
Joseph Stiglitz 「The Price of Inequality: How Today's Divided Society Endangers Our Future」
Dani Rodrik 「One Economics, Many Recipes: Globalization, Institutions, and Economic Growth」
Muhammad Yunus 「Creating a World Without Poverty: Social Business and the Future of Capitalism」
C. K. Prahalad 「The Fortune at the Bottom of the Pyramid, Revised and Updated 5th Anniversary Edition: Eradicating Poverty Through Profits」
Aneel Karnani 「Fighting Poverty Together: Rethinking Strategies for Business, Governments, and Civil Society to Reduce Poverty」
Angus Deaton 「The Great Escape: Health, Wealth, and the Origins of Inequality」
Amartya Sen, Jean Dreze 「An Uncertain Glory: India and its Contradictions」
Jagdish Bhagwati, Arvind Panagariya 「Why Growth Matters: How Economic Growth in India Reduced Poverty and the Lessons for Other Developing Countries」



<気候変動、エネルギーと開発学のセミナー (Climate, Energy and Development)>
 選択科目。週3時間。標題のとおり、開発学とエネルギーがクロスオーバーする領域に関するケース・スタディを幅広く扱うもので(例:コンゴ民主共和国の巨大ダム、バングラデシュの小水力発電、ケニアのバイオ燃料、インドネシアのパーム油、ブータンのスマート・グリッド)、前学期のモザンビーク・プロジェクトを通じて再生可能エネルギーが途上国に与えるインパクトの大きさを学んだ私にとって、最高にハマる授業であった。

 いま「再生可能エネルギーが途上国に与えるインパクトの大きさ」と書いたが、本授業を経てその印象はいよいよ深まった。むしろ、「再生可能エネルギーがその真価を発揮するのは途上国である」と言った方が表現としては正確かもしれない。
 というのは、途上国の抱える最もラディカルな問題のひとつは「電気が通っていない」ことなのですね。電気がなければ、当たり前だけどまず電灯が使えないし(そうすると利用者に呼吸器系疾患をもたらすケロシンランプなどを使わざるを得ない)、ラジオもテレビも携帯電話もダメだし(つまり外部からの情報を得られない)、簡易タブレットを配布して子どもの教育に役立てるなんてこともできない。八方手詰まりなのである。

 そうした状況を打開するため、つまり人々に電気を届けるため、かつては火力発電や大型水力発電などの集中型電源(Centralized Generation)に頼るのがスジであった。でもそれは、

 1.プラントを動かせる技術人材が圧倒的に不足していたり、
 2.電線や変電所を建てるコストが馬鹿にならなかったり、あるいは
 3.発電所に投資するお金が汚職&賄賂LOVEなおっさんに吸収されたりして、

貧しい国ほど電化率が改善されにくいという悲しい経緯があった。

 ところが、太陽光発電や小型水力発電などの分散型電源(Distributed Generation)の台頭によって、そうした状況が一気に改善される目が出てきた。なぜなら、分散型電源は上述の障壁をうまくスルーすることができるからだ。すなわち、

 1.操作は比較的単純なので技術人材はあまり必要ないし、
 2.(携帯充電などの即時需要を満たせば良いので)電力網の整備は必須条件ではないし、また
 3.現物支給に徹すればおっさんによる「中抜き」も起こりにくい。

 私は思うのだけど、あと10年もしたら、「再生可能エネルギーの割合が高い国ランキング」の上位陣はアフリカ諸国に塗り替えられるかもしれないですね。電力の安定供給とか、調達先の多様化とか(あるいは電力会社の既得権益とか)、そういった先進国的なお題目に縛られないぶん、かえって太陽光パネルの普及がうまく進むんじゃないだろうか。まあこれは期待半分ではありますが。


電化率の低い国ほど、貧困率も高い傾向にある。同種の研究はいろいろあって、たとえば電化率は乳児の死亡率、初等教育を受けた子どもの割合、識字率、交通・下水道等のインフラ整備率などとも強い相関があると報告されている。
図の出所:International Institute for Applied Systems Analysis「Global Energy Assessment」(2012年)


 担当教授はDaniel Kammen。私がGSPPへの進学を決めたのは、誰あろうこの人がいるからだ(出願エッセイでもお名前を拝借した)。ハーバード大学で物理学の博士号を取得し、2007年にノーベル賞を受賞したIPCCの総括執筆責任者、世界銀行のチーフ・スペシャリスト、オバマ政権の気候変動アドバイザーなどを経て、現在はUCバークレー再生可能・適正エネルギー研究所(RAEL: Renewable and Appropriate Energy Laboratory)のディレクター兼エネルギー資源グループ(REG: Energy and Resources Group)の教授兼GSPPの教授という、ちょっと眩しすぎる経歴をお持ちの方なのだが、今回授業を受けてみて、その肩書に負けない知性と人格の備わった方であることがよくわかった。というとちょっと褒めすぎかもしれませんが。

 しかし正味な話、エネルギーについてここまで広く深く話せる御仁を、私はこれまで見たことがない。エネルギーという分野には広大な山脈を連想させるところが私にはあって、それは石炭、石油、原子力、太陽光という名の山々に、地学、有機化学、電気工学、経済学という名の登山道がそれぞれ複雑に巡らされているという意味合いなのだが、その全容を正しく把握するのはほとんど不可能と言ってよく、多くのレンジャー(案内人)たちは、限られた経験と未踏の山々の稜線から訳知り顔にガイドするほかない。
 そうした中で、Kammen教授はすべての山のすべての道を踏破してしまった変態レンジャーのようなもので、視座のひとつひとつが細やかで立体的、いわば虫瞰図と鳥瞰図を同時に持った状態である。季節の移ろいにも敏感で、なおかつ山の成立史にも通暁しているのだから、これはやはり余人をもって代え難いレンジャーということになる。

 うーん、また、褒めてしまった。でも褒めるしかないんですよね、この人の場合は。

本授業の最終課題、20ページ程度の政策分析ペーパーにおいて、私は「ケニアの太陽光発電を対象とした固定価格買取制度の費用便益分析」をテーマとした。そう、これは先に紹介した費用便益分析の応用(またの名を使い回し)である。

「資源大国アフリカ」の印象に反して、ケニアは化石資源に乏しい国である。もっともそのおかげで「天然資源の罠」(途上国で豊富な資源があると独裁政権の金づるになったりしてかえって経済成長が妨げられるという主張。オックスフォード大学のポール・コリアー教授が提唱した)を回避できているという見方もあるかもしれない。でもここで言いたいのは、ケニアは今後も再生可能エネルギーに頼る必要があるのに、太陽光発電のポテンシャルが現時点では十分に活かされていないということだ。図の出所:Kenya National Bureau of Statistics 「Kenya Facts and Figures」(2013年)を元に筆者作成

ケニア政府は、実はすでに太陽光発電を対象とした固定価格買取制度(FIT)を2010年から実施している。しかし、最大で0.2$/kWhという現行の買取価格は、残念ながらケニアの事業者の重い腰を上げさせるだけのパワーを持ってはいないようだ。

それでは、買取価格をいくらにすれば社会的な便益が最大になるのだろうか?再掲になるが、私は費用便益分析を以下の3つのステップに沿って行った。
ステップ1: 買取価格を「x」としたときの総発電量を、xの関数「y=f(x)」で表す。
ステップ2: 費用&便益の各項目を、yの関数(ということはxの関数)で表す。
ステップ3: 「便益の現在価値の総和」から「費用の現在価値の総和」を引いた値(Net Benefit)が、どの買取価格(x)で最大になるかを求める。

ステップ1では、ケニアの日射量が地域ごとに異なる事実を利用して、「発電容量10MWの太陽光パネルについて」、「投資回収が5年で達成できるほど買取価格が高かったとき」、「0.01%の土地が太陽光発電に使われる」といった仮定の下に、買取価格と発電量の関係を表すシンプルなモデルを作成した。
図の出所: J. K. Kiplagat et al.「Renewable Energy in Kenya: Resource Potential and Status of Exploitation」(2011年) 

上に示すのがその試算結果だ。価格(Price)と発電量(Quantity)の関数なので、これはFIT政策下における供給曲線と見ることができる(通常の電力市場とは逆に、買い手=電力会社、売り手=事業者というのがポイント)。
このモデルは、「現行の買取価格(=0.2$/kWh)は事業者に太陽光発電の参画を促すには不十分」であることを示唆している。

これがステップ2の結果である。引用文献によっては換算係数に幅があるためTotal CostとTotal Benefitの双方の見積もりに高低が生じているが、総じて「はじめはTotal Benefitの方が大きいけれど、買取価格が高くなるにつれTotal Costに追い抜かれる」という傾向が認められる。

そしてこれがステップ3の結果だ。実線は平均推定値(Mean Estimate)、2つの破線は上方/下方推定値を示している。平均推定値だけを見て結論に飛びつくと、買取価格が0.44$/kWhのときに総便益は約360百万ドルで最大になる(これはケニアのGDPの1.0%に相当)。しかし、もしケニア政府がリスク回避を好む傾向にあるなら(経済学的に言うと、期待値が同じでも分散が少ないほど効用が高くなるRisk Aversionの傾向にあるなら)、買取価格はもう少し保守的に0.31$/kWhあたりからはじめても良いかもしれない。
あるいは、太陽光発電の参入障壁が設備投資(Capital Cost)の高さにあることを斟酌して、FIT政策に併せて補助金や税控除(Tax Credit)を実施するのもひとつの選択肢ではある。(両者の政策は相互排他的ではない)
ということで、ケニアのエネルギー担当の高官がこの記事を読んでいる可能性は・・・限りなくゼロに近いとは思うけど・・・万が一ご覧になっていらっしゃるようでしたら、ご賢察のほど何卒よろしくお願いいたします。



<ビジネス基礎講座 (Fundamentals of Business)>
 選択科目。週3時間。Haas(UCバークレーのビジネススクール)が他学部の大学院生に門戸を開いている授業で、Marketing, Management, Accountingの3科目を5週ずつ学ぶ構成になっている。各科目にレポートと試験(ただし自宅で受けられる)が1回ずつあるので、学期中はずっとせわしなかったが、それでも他の授業に比べれば楽だった気がする。
 でも正直なところ、本授業を通して何か大きなTakeawaysが得られたかというと、ちょっと即答しにくい面があるのも確かだ。まあこれは私が留学前にMBA的な英語学校でManagementやAccountingについてある程度勉強していたからであって、先生やカリキュラムの質が低いというわけではまったくない。むしろ「さすがMBA!」と唸らされることが多かった。ビジネス系の分野をこれまでほとんど勉強したことがない人にとっては、本授業は格好の水先案内となるだろう(事実、クラスの約半分がエンジニア系の学生だった)。

 私が最も感銘を受けたのはMarketingの科目であった。マーケティングというと、なんとなく「モノを売る小手先のテクニック」的な印象をお持ちの方もいらっしゃるかもしれない(少なくとも5年前の私はそうだった)。でも実は、マーケティングというのは、孫子の有名な箴言「彼を知り、己を知れば百戦して殆うからず」を、ビジネス風に(アメリカ風と言ってもいいかもしれない)パラフレーズしたものだったのだ。
 然してその応用範囲はビジネスに留まらない。「同業他者との比較から、自分が戦えるフィールドがどこかを把握し」、「どの顧客層に狙いを定めれば最大の効果があがるかを判断し」、「そこに持てるリソースを集中してつぎ込む」という戦略は、自営業にも、研究者にも、行政官にも、そしてブログ運営者にも大いに有用であると思う。

 各科目で提示された課題図書を以下に記す。特にコトラーの教科書は、卒業後にじっくり読んでみたいものである。

【Marketing】
Phillip Kotler 「Marketing Management」
Alexander Osterwalder, Yves Pigneur 「Business Model Generation: A Handbook for Visionaries, Game Changers, and Challengers」
Don Schultz 「Sales Promotion Essentials: The 10 Basic Sales Promotion Techniques... and How to Use Them」
Seth Godin 「Permission Marketing: Turning Strangers Into Friends And Friends Into Customers」

【Management】
Kent Lineback, Linda A. Hill 「Being The Boss: The 3 Imperatives for Becoming a Great Leader」

【Accounting】
William G. Droms, Jay O. Wright 「Finance and Accounting for Nonfinancial Managers: All the Basics You Need to Know」




 2013年は、私の人生で最も勉強した1年であった。いま改めて実感するのは、密度の高いインプットを行うのに、バークレーは最高の環境だということだ。そんな環境に身を置ける幸せを、普段は課題に追われて見失いがちだけど、ゆめゆめ忘れるべからずと自戒したい。
 しかし同時に、インプットを積み重ねるだけでは行き場というものがないよな、と思ったのも確かである。「ひとりの人間がその人生で何をなしたか」を計る尺度は、インプットではなく、アウトプットの質量によって決まるものだろう。大量の本を読んでも、高度な専門知識を蓄えても、立派な資格や学位を揃えても、それだけではアウトプットはゼロなのだ。
 
 留学生活も残すところ来学期のみとなった。卒業がいよいよ視界に入ってくる。そして、一番最初に宣言したとおり、「バークレーと私」は、卒業とともに終了となる。
 このブログを広義のアウトプットと捉えてよいなら、2年間、ささやかだけど手ごたえのある(tangibleな)仕事ができたと思う。少なからぬ情熱を注ぎ込んだ結果、少なからぬ対価を得ることができた。それはひとえに、このページを何度も訪れてくれた皆さんのおかげである。

 「アイ・ラヴ・ユー」を叫んだのは、もう半年以上前のこと。でも、大事なことは何回言ったっていいものだ。

 みんな、愛してるよ。




 なんだか最終回の挨拶みたいになってしまった。でももうちょっとだけ続きますからね。

2013/12/07

UCバークレーの便所の落書きを集めていること

 男の子の定義とは何か。いろいろなものがあるだろうが、仮にそれを「何の役にも立たないものを熱心に集めるアホ」とするならば、私はまごうことなき男の子であった。

 どんぐり、牛乳びんのふた、ビックリマンチョコのシール、ドラゴンボールのカードダス、岩波文庫のしおり、B級映画のチラシ、新聞の人生相談のスクラップ、電車内でぐんぐんになっている人の発言録・・・。

 私を焦がしたあの情熱は、どこから湧き出たものであったか。
 答えはコレクションとともに雲散霧消し、いまはさびしく微笑むほかない。
 

 ところが最近、燃えさしの薪にまた火がついたようになって、ひとつ集めているものがある。それは、UCバークレーのトイレで見かける落書き(の写真)だ。





 コレクションをはじめて3カ月。収集品の数もそれなりに充実してきたので、今回はその一部を皆さんに公開してみたい。
 食事中の方は、いったん箸を置かれることをおすすめします。


作品番号1 市場主義あるいはミスターT
 「MKT」は市場(Market)、「The tea party」とは小さな政府を目指す運動のことだから、「政治問題を解決するのは市場原理のみだ」という社会風刺的な落書きだと思っていたのだが、最近になって、これは「MKT」じゃなくて「特攻野郎Aチーム」というテレビドラマに出てくる「MR.T」なんじゃないかと気がついた(MR.Tはモヒカンのマッチョ野郎なので、イラストにもマッチする)。
 「ティーパーティー運動を阻止できるのはミスターTだけだ」。
 だから何なんだ、とツッコんだらこちらの負けだ。



作品番号2 レーザー鮫の冒険のための習作
 地球惑星科学科のトイレで遭遇。ノリとしては、「ぼくの考えたポケモン」、コロコロコミックの読者投稿欄に出てきそうな感じではある。でも決め台詞の「Y.O.D.O. (You Only Die Once, Motherf**ker)」は、コロコロコミックにはちょっと向かないかもしれない。

 
 
 1ヶ月後に再訪したら、鮫釣りの漁船が描き足されていた。この即興性(Improvisation)が便所の落書きの魅力だ。
 
 
 
作品番号3 魚と無
 大便器に跨っていたら、突然、魚が食べたくなった。そんなことがあるのだろうか。
 どこか焦燥を感じさせる筆致の「魚」と、その小脇に佇む四つの「無」。わけもわからず書いたのか、わけがわかって書いたのか。人生の虚無性について考えさせられる名作だ。

  
  
 
作品番号4 超訳・オイディプス王
 「古今の名作を一行で要約する」というネタを昔の深夜ラジオか何かでやっていたけれど、その心を受け継ぐ者がバークレーにも現れた。でもこれはひどい。ソフォクレスさんも草葉の陰で憤慨していることだろう。
 後に誰かが書き足した「Blind」の単語が、ある種の文学的なフォローになっているのが滋味深い。



作品番号5 ウンコをもらした男
 おもしろうて、やがて悲しき四行詩。よく読むと各行の最後で韻を踏んでいて(heartedとfarted、by chanceとmy pants)、なかなかに芸が細かい。



作品番号6 ティファニーで朝食を、スタンフォードに小便を
 これは厳密には落書きではないし、バー「Henry's」のトイレにあったので大学構内という条件すら満たしていないのだが、MPH/MBAのMasakiさんに教えてもらっておもしろかったのでここに載せる。
 UCバークレーとスタンフォード大学がライバル関係にあるのは有名な話で、その憎き(?)スタンフォードのロゴに小便をひっかけてスッキリしようという、まあこれは悪趣味なジョークなのだが、私はこういうのはわりに好きな方である。つまり悪趣味な人間なのだ。


<落書きは多くない>
 こうしてコレクションを並べてみると、「UCバークレーのトイレは落書きだらけなのか」と思われる向きもあるだろう。しかし、それはまったくの誤解である。
 私はかつて日本の便所の落書きを収集していたこともあるので(ヒマですね)相場観がある程度わかるのだが、UCバークレーはかなり少ない方である。

 落書きをあまり見かけない理由として、「UCバークレーの学生は真面目だから」というのがあるかもしれない。しかし私はこの説を支持しない。パレートの法則で知られるように、どの集団にも一定割合のダメな奴がいるものなのだ。
 むしろ私は、「落書きが頻繁に消されるから」という説を唱えたい。事実、これはと思った落書きを発見し、カメラを携えて後日再訪したらもうなくなっていたというケースも一度や二度ならずあった。

 たとえば、壁にあけられた小さな通気孔に矢印を指し、「NSA is spying on you.」と書かれた落書きがあった。
 ご案内の方も多いと思うが、NSAとはNational Security Agency、すなわち国防総省の諜報機関のことであり、「彼らはトイレでウンコをしている(あるいは何か別のことをしている)あなたのことも監視していますよ」というのがこの落書きの趣旨なのだが、数日後に訪れたときにはすでに跡形なく消えていた。なんだかジョージ・オーウェルの小説に出てきそうな話だが、作者の生存を祈りたい。



<落書きは国境を越える>
 私がコレクションをはじめた理由のひとつに、「日米のお国柄の違いを見てみたかったから」というものがある。便所の落書きに見る日米比較文化論。そんな題の学術論文があったっておかしくない。

 便所探索の初期においては、やたら男性器の落書きが目についた。翻って、日本の(男子)便所には、むしろ女性器の落書きが多かった気がする。

 これは一体どういうことか。

 狩猟文化と農耕文化の違い?
 PaternalismとMaternalismの違い?
 それとも、性に対するタブー意識の違い?

 ・・・などと思索に耽る日々であったのだが、サンプル数が増えるにつれて、統計的有意性は徐々に薄らいでいった。つまり、女性器の落書きもたくさんあったのだ。

 共通点はほかにもある。「壁に落書きするな ← お前がしてんじゃん」とか、「右を見ろ・・・上を見ろ・・・アホ」といった、いわば便所の落書き界における定番ネタを、バークレーでも頻繁に見かけた。言語は違えど、内容は概ね同じである。

 これは一体どういうことか。

 日から米へと、あるいは米から日へと、文化的伝承のようなものがあったのだろうか?
 それとも、世界の神話が奇妙な類似性を示すのと同様に、人間の意識が深いところで地下水脈のようにつながっていることへの証左なのだろうか?

 思索の種は尽きない。

(でも、「鬱だ」「死にたい」的な落書きはバークレーではほとんど見かけなかったですね。これは相違点に数えられるかもしれない)



<便所=メディア論>
 便所の落書きの歴史は、どこまで遡れるものなのか。一説によると、紀元前2200年頃に建造されたメソポタミアのテル・アスマル宮殿にはすでに水洗便所が存在したということなので、そこで当時のシュメール人だかアッカド人だかが「ウンコ」「アホ」などと書きつけたものが人類初の落書きだったのではあるまいか。爾来、人類は4,000年以上にわたり、脈々と「ウンコ」「アホ」と書きつづけてきたわけである。そう考えるとなんだか胸が熱くなる。

 便所の落書きの魅力。それは、一定の匿名性を保ちながらも、書き手の体温をそこはかとなく感じられるところにある。便所の落書きの作者というのは、往々にして何らかの屈託を抱えた輩であるが(心身ともに充実した人がトイレの壁にペンを走らせる姿を想像するのは難しい)、直球のヘイト・メッセージが意外にも少ないのは、やはり書き手が後続の読み手の存在を意識するからであろう。
 空間の共有性。より詩的に表現するなら、便器に跨る孤独な魂たちの交信。これが便所というメディアの特性なのである。

 かつて、インターネットの匿名掲示板が「便所の落書き」の代替物になるとみられた時期があった。しかし、そうしたものの登場から十余年を経たいまなお、便所の落書きが絶滅危惧種に指定される気配はない。iPodが市場を席巻してもレコードプレーヤーの愛好者がいなくならないように、便所の落書きには便所の落書きにしか果たせない役割があって、世界の不充足を細々と引き受けているのである。千年単位の不充足を。



<読者の皆さまへお願い>
 味わい深い便所の落書きを見つけた方は、
 berkeleyandme便所gmail.com
 まで写真をお寄せください。国・地域を問いません。

 ※「便所」を「@」に置換してください