この本の凄みは、日本人を「世界の東の果てにいる未開で野蛮な民族」と見なしていた西欧の人たちに対して、「そんなことはありません。あなたがたと同じように、私たちは独自の洗練された精神と深みのある哲学を有しているのです」と、一見して穏やかに、しかし水面下では国運を賭けて必死にプレゼンしているところにあると思う。それを具体的にどうやったかというと、当時のエスタブリッシュメント層の共通言語としての教養から引用しまくって、日本人の風習や文化に徹底的に比喩させたのである。
その結果は、まあ私などが解説をするまでもなく、大成功であった。「あいつらウンコじゃん」から「あいつら見どころありそうじゃん」へと、日本人に対して理解を示されるように、少なくとも誤解のベクトルがポジティブな方角に傾くようになった。なるほど、稲造さんは五千円札の中央に座するだけの偉業を確かに成し遂げたのである。いまそのポストには後任の一葉さんが来ているけれど。
そんな稲造さんに倣って、と言えるかどうかはわからないが、そのアプローチを援用する機会が私にもあった。GSPPとアダルトスクールで、それぞれ落語を演じたのだ。
「Rakugo」と言ったところで、まあほとんどの人にとっては初耳である。それはたとえば、私たちがマラウイ共和国に住むムポンメ族の伝統芸能「Unpoco」(※)についてよく知らないのと同じことだ。
そんなRakugoに親しんでもらうのに最善の手段は、おそらく桂枝雀のように英語落語を実際に演じてみせることだろう。とはいえ、私が最後に高座に上がったのは8年前のことであり、お客さんに見せられるレベルにまで持っていくには、ちょっと仕込みに時間がかかりすぎる。
そんなわけで私は「枝雀的アプローチ」の全面的採択を諦め、その代わりに、共通言語からの引用・比喩をふんだんに使う「稲造的アプローチ」を取ることにした。でもそれだけでは味わいに欠けるので、要所で(英語ではなく)日本語での実演も披露した。いわば「枝雀&稲造ハイブリッドアプローチ」である。
(※ 「ムポンメ族」も「Unpoco」も筆者がでっちあげた名称です。実在しません。ごめんなさい)
以下は、私の5分間の発表の骨子である。あなたがアメリカ生まれアメリカ育ちのアメリカ人で、Rakugoなんてのはこれまで見たことも聞いたこともないと仮定して、はじめて象に触った盲人のような気持ちでこの原稿を読んでみたら面白いかもしれない。
こんにちは。僕はSatoru。まあみんな知ってるね。
実はね、僕は昔、コメディアンだったんだ(「つかみ」の部分。ここでまず笑いを取る)。
つまり、Rakugoという名のJapanese Traditional Performancesを演っていたんだ。今日はそんな落語について、みんなに紹介しようと思う。
第一に、落語家は、スタンダップ・コメディアンに似ている。実際には落語家は座りっぱなしで、言うなればシットダウン・コメディアンなんだけど、一人で何役も使い分けるところは似ている。こんな風にね。
(「長屋の花見」の熊さん八っつぁんのやり取りを演じる)
第二に、落語家は、パントマイム演者に似ている。落語家は、手ぬぐいと扇子だけで、いろんな動作を表現するんだ。こんな風にね。
(「猫の災難」で盃に酒をつぐ場面、「時そば」で蕎麦をすする場面、「船徳」で船を漕ぐ場面などを演じる)
第三に、落語家は、ジャズ演奏者に似ている。ジャズのスタンダードナンバーは、演奏者によってかなり雰囲気が変わるよね。たとえば、「枯葉」(Autumn Leaves)という名曲があるけど、マイルス・デイビスの、ビル・エヴァンスの、チェット・ベイカーの、サラ・ヴォーンの、いろんな種類の「枯葉」がある。それと同じように、落語にも噺のスタンダードナンバーがあって、演者によって内容が変わるんだ。だからお客さんは、同じ噺を何度も楽しめるというわけさ。
落語は庶民の文化だ。特に賢くない、権威もない、金持ちでもない、ごく普通の人たちに、落語はずっと愛されてきた。
落語は難しいものじゃない。落語はみんなを笑わせ、緊張をほぐし、明るい気持ちにさせてくれる。だから僕は落語が好きなんだ。
いつかどこかで、あなたが落語を聴く機会があったら嬉しいな。
ありがとうございました。
結果として、この発表はかなりウケた。特に日本語で演じた場面では、感嘆と爆笑のうねりが会場を揺らした。「枝雀的アプローチ」の成功である。
しかし反省点もある。私の観察が間違っていなければ、ジャズ演奏者の比喩のくだりで首を傾げていた観客が少なからずいた。つまり、ジャズはすでに、アメリカの若者たちにとって共通言語ではなかったのだ。「稲造的アプローチ」の部分的失敗である。
あなたがどこに留学しようと、こうした学芸会的、文化交流会的イベントが催される可能性は高い。落語に限らず、茶道でも書道でも、柔道でも弓道でも、生け花でも折り紙でも、大正琴でも津軽三味線でも、初音ミクでもヱヴァンゲリヲンでも、題材は何でもいい。あなたが捉えた日本の一面を、自由に表現されてはいかがだろうか。
私たちは相変わらず世界の東の果てに生きている。そこが世界の中心になる日は、たぶん来ないだろう、残念ながら。それでも、「あいつら見どころありそうじゃん」と思う人がちょっとでも増えたとしたら、それはとても嬉しいことではありませんか。
【おまけ】 発表後の主な質疑応答
Q.落語は約300年前にはじまったというけど、日本の歴史はもっと古いんじゃないの?
A.いい質問ですね。そのとおり、日本の歴史はもっと古い。でも日本の庶民はそれまでずっと貧しい暮らしをしていて、生活の中で落語のような娯楽を楽しむ余裕が出てきたのは、300年前の江戸時代になってからなんだ。
(その場しのぎの回答なので、時代考証を欠いてます。間違ってたらすみません)
Q.Kabukiというのも聞いたことがある。KabukiとRakugoはどう違うんだ?
A.いい質問ですね。Kabukiの演技者は複数で、装飾は派手で、多くのストーリーはシリアスだ。対して、Rakugoの演技者は一人で、装飾は地味で、多くのストーリーはコメディだ。
Q.日本のどこにいけば落語を見られるのか?
A.いい質問ですね(そればっかり)。最近は少なくなったけど、東京にはいくつか落語専門の演芸場がある。そのほか、コンサートホールで独演会が行われることも多いよ。
Q.落語を見ながら酒を飲んだりご飯を食べたりしてもいいのか?
A.うん。演芸場では、みんなリラックスしてビールを飲んだりおにぎりを食べたりしているよ。何せ庶民の娯楽だからね。でも独演会だと、観客に求められるマナーのレベルはもう少し高くなる。
Q.Satoruはプロの落語家なのか?収入はあるのか?
A.残念ながらそうじゃない。あちこちで公演はしたけど、あくまでアマチュアのレベルだよ。
でも仮に僕がプロの落語家で、それでいて公共政策を勉強するためにUCバークレーに留学しているとしたら、それってかなりクールだよね!
パワーポイントは使わず、この一枚紙だけを配布した