2014/04/19
停電
「おまえのおじいちゃんって、ぜったいあたまがおかしいよな」と、よくいわれる。
おじいちゃんになってボケてきたから、じゃなくて、むかしからそうなんだという。
おじいちゃんは、うみにもぐるひとがきているようなふくを、いつもきている。
ねているときも、おきているときも、おふろにはいっているときだってそうだ。
おじいちゃんは、おじいちゃんとよばれるずっとまえから、そのふくをきているらしい。
そんなひとって、おじいちゃんのほかにはみたことない。
たしかにちょっとかわっている。でもそれは、「あたまがおかしい」のとはちがうとおもう。
だっておじいちゃんは、ぼくのしらないことを、なんでもしっているのだから。
★ ★ ★
早朝、古い友人と雲力発電について意見交換。
人工的に雷雲を作る研究自体は、私の若い頃にもあった。
しかし、どれも実用化には至らなかったと記憶している。
成功の鍵となる要素技術は何だったのか。
それが幾度説明されても分からない。
媒体電荷エアロゾル?
ワイヤレス送電技術?
理解できないのは、彼の説明に不備があるからか。
それとも、私の知力が衰えたからか。
実はすでに、結論は出ている。
★ ★ ★
なつやすみのじゆうけんきゅうは、でんきについてしらべることにした。
きっかけは、せんせいが、テイデンについておしえてくれたからだ。
テイデン。
いえや、がっこうのでんきが、いきなりぜんぶなくなっちゃうことを、テイデンとよぶらしい。
そんなことって、あるんだろうか。
「そんなことが、あったのよ」
と、おかあさんがいった。
「おかあさんは、ちいさいころ、いなかにすんでいたでしょ。だから、よるにテイデンになると、いえのなかはまっくら。そうしたら、おしいれからろうそくをだしてきてね。マッチで、こう、ひをつけて、あかりをともすの。おかあさんは、それがうれしくてね。はしゃいで、おばあちゃんに、よくしかられたっけ」
おばあちゃんには、いちどもあったことがない。
ぼくがうまれるまえに、しんでしまったからだ。
むかし、おおきなじしんがあった。
おばあちゃんは、じしんにはやられなかったけど、
そのあとにきたつなみに、のみこまれてしまった。
そのときも、テイデンがおこったらしい。
テイデンのことをかんがえると、
こわいのと、わくわくするのが、
いっしょになったきもちになる。
★ ★ ★
「地震発電の理論と応用」読了。
昔は地震のために電力供給が滞ったものだが、今は地震のために電力供給が安定する。
孫は、停電という言葉を知らなかったという。隔世の感がある。
世界有数の地震大国だった我が国が、よもや世界有数の発電大国になろうとは。
地震発電の登場は、電力システムの常識を覆す『事件』であった。しかしそれは、発電技術の高度化によってのみ成し遂げられたものではない。送配電、蓄電、耐震及び地震予知等の技術革新に支えられ、初めて実現可能となったのだ。我々はその事実を忘れてはならない。
傍線を引く。
★ ★ ★
「でんきのことなら、おじいちゃんにきけばいいじゃない。へんなことばっかりしているけれど、あのひと、いちおうでんきのけんきゅうしゃなんだから」と、おかあさんがいった。
ぼくはおじいちゃんにきいてみた。
「わしがこどものころ、でんきは『せきたん』や『せきゆ』をもやしてつくっていたんだ」
「なあに、それ?」
「ずっとむかしにいきていた、しょくぶつやどうぶつたちがしんで、それがもとになってできたものだよ」
「じゃあ、ぼくもしんだら、でんきになるのかな」
「そのまえに、わしがでんきになるだろう」
あかりをしばらくみつめてから、めをとじると、くらやみのなかにちいさなひかりがのこる。
あれがなんだったのか、いま、わかったきがする。つまりあれは、しょくぶつやどうぶつたちの、たましいのかけらだったんだ。
ぼくはそのことをつたえたかった。でも、おじいちゃんは、もうなにかべつのことにむちゅうになっていて、ぼくがとなりにいることすら、わすれてしまったみたいだった。
★ ★ ★
古い日記を読み返す。
成し遂げたことの大きさが、人生の価値を測るのではない。
どのようにしてそれを追い求めたか。その軌跡にこそ意味があるのだ。
流転する万物、すべてが発電の源と成り得る。
リスクを取らないことが、最大のリスクだ。
傍線を引く。
★ ★ ★
おじいちゃんがいなくなって、いえのなかがきゅうにしずかになった。
からだのぐあいがよくなくて、びょういんでくらすことになったからだ。
どこがわるいのかは、ぼくにはちょっとわからない。
でも、「だいじょうぶよ。おじいちゃんは、すぐによくなるわ」と、ひとりごとのようにいっていたおかあさんが、さいきんそういわなくなったことに、ぼくはきづいている。
★ ★ ★
窓の外で雨が降っている。
あの雨を何かに利用できないものか。
計算が必要だ。
雨を集めて
雨の
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おじいちゃんがしんだ。
いろいろなひとがやってきて、いろいろなことをいって、いろいろなものをくれた。
でもそのあたりのことは、ほとんどなんにもおぼえていない。
おぼえているのは、ただひとつ、おじいちゃんがぼくにのこした、あのへんなふくのことだ。
「なんでこんなのをくれるんだろう。へんなふくをきるのはいやだなあ」
と、ぼくはおもった。
だけどそうじゃなかった。
このふくは、ひとのからだにながれるでんきをあつめる、とくべつなふくだという。でも、そのでんきはものすごくすくないので、なんねんもなんねんも、それをきているひつようがあるらしい。
「わしがいままでためたでんきが、おしいれのバッテリーにたくわえてある。これを、わがやのでんきとしてつかいなさい」
それが、おじいちゃんがのこした、さいごのことばだった。
おじいちゃんは、しんだらでんきになった。
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僕は今、草履発電の研究開発をしている。
歩行の運動エネルギーを使って電気を起こす、蓄電池を兼ねた草履である。
目下の課題は、ときどき草履が異常に熱くなり、履く人の足が焦げてしまうこと。
ここさえ突破すれば、実用化まではあと一息だ。
二十年前、僕のお爺ちゃんが亡くなったとき、お爺ちゃんは生体発電スーツ(未だ実用化には至っていない)を遺し、自宅の電気をこれで賄うように指示をした。
ところが、蓄えられた電力量はあまりに少なくて、わずか3分後、我が家は真っ暗になった。
今にして思えば、あれが僕の初めての「停電体験」だった。
お爺ちゃんは、停電を僕に教えるために、わざと電力不足の蓄電池を遺したのだろうか?
それとも、人体発電を真剣に研究した結果、失敗して停電になったのだろうか?
あれから二十年間、僕は折に触れてそのことを考えてきた。
あるときは前者の仮説に傾き、またあるときは後者の仮説に傾いた。
実はすでに、結論は出ている。
どちらでもいいのだ。
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