2014/02/06

現実逃避の効用を称揚したいこと

 留学中に実感したことのひとつは、Resilienceの重要性だ。

 異国の地で勉強するというのは、なかなかどうしてストレスフルな行為である。文化の相違がもたらす混乱と不安。外国語で意思疎通することのもどかしさ。程度の差こそあれ、傷ついたり、落ち込んだりしない方がおかしいというものだ。

 ストレスを避け続けることはできない。大事なのは、そこから自発的に立ち直る力、すなわちResilienceである。




 Resilienceを身につけるにはどうすればよいか。アメリカ心理学会(American Psychological Association)によると、以下の方法が有用であるという。

1.  家族や友人と良好な関係をつくる。
2.  危機を克服可能なものとして捉える。
3.  変化を人生の一部として受け入れる。
4.  自分の目標に向かって進む。
5.  きっぱりと行動する。
6.  自己発見の機会を探す。
7.  自分を肯定的に受けとめる。
8.  長期的な展望を持つ。
9.  楽観的な姿勢を保つ。
10. 自分の内面に注意を払う。

 我が身を振り返ってみると、留学中のアベレージとして、7割程度はクリアできていたと思う。全体の相場観はよくわからないが、まあ、万事快調と言ってよいだろう(ヒント:自分を肯定的に受けとめる)。

 けれども私は、心のダークサイドと無縁に生きてきた人間ではない。「きっぱりと行動する?それができないから苦労しているんだよ・・・」という怨嗟の声があれば、共感してしまう部分は少なからずある。

 そこで私は、Resilienceを獲得するためのもうひとつの方法として、

11.  適度な現実逃避を行う。

を挙げたい。先述の「10の方法」を優等生サイドの提案とするなら、こちらはいわば劣等生サイドの提案だ。




 現実逃避と一口に言っても、いろいろなものがある。

 家族を捨てて失踪する。
 サイコロの出目に全財産を託す。
 食べると新しい世界が見えるキノコを食べる。
 自分で神様を創作し、その指示に従う。
 特殊な電波を受信し、その指示に従う。

 このような行為は、あなたの人生に深いコクを与えてくれることだろう。他方で、社会復帰がやや難しくなるという欠点もあるのもたしかだ。

 留学中の現実逃避は、やはり適度なものがよい。いじめられっ子の小学生が、来週の少年ジャンプを読むまではとりあえず生きていようという、そういうレベルの現実逃避だ。




 人生に「立ち向かっていく」のではなく、「凌いでいく」という発想。
 今回は、私がこれまで見聞した現実逃避のうち、特筆すべきものを紹介したい。




<現実逃避その1: どじょうを愛でる>
 苦難に満ちた留学準備を乗り切ることができたのは、私の場合、どじょうたちに負うところが大きい。彼らは、いまを遡ること6年前、私が「墨田区ちびっ子どじょうすくいまつり」(仮称。というか正式名称を失念)に参加したとき以来の愉快な同居者であった。

 どじょうの魅力は、第一に、そのとぼけた顔にある。なぁーんも考えてないような、いや実はハイゼンベルグの不確定性原理について深い洞察を巡らせているかもしれないが、少なくとも外見からはそうした知的気配をまるで感じさせない呆けた顔立ち。そこには何かしら見る者の緊張を緩和させるものがある。

 第二の魅力は、予測のつかない動きだ。彼らは、底砂に埋もれて頭だけちょこんと出していることもあれば、仲間と横一列に並んだまま、ずうぅぅぅぅっと沈黙していることもある。水草に沿って垂直の姿勢で数十分も固まっていたかと思うと、次の瞬間には発狂したように猛泳する。夜間に水槽から飛び出して、朝起きたら畳の隅っこで動かなくなっていた、なんてこともある(ダメモトで水の中に入れたら復活した。どじょうの生命力をなめてはいけない)。

 彼らはなぜ、そのような行動を取るのか。動機は何か。目的は何か。これがまったくわからない。奥さんの言葉を借りるなら、感情のやり取りを行う余地がないのだ。
 だが、それがいい。そんなどじょうの姿をぼおぉぉぉぉぉぉっと眺めていると、これがなかなか「効いてくる」んです。

 余談その1。留学が決まったとき、4匹のどじょうたちをバークレーに連れていくわけにもいかず、どうしたものかと思案していた折に、彼らは何かを悟ったように昇天してしまった。あのときは悲しかった。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴ、天国で元気でね。

 余談その2。どじょうは英語でLoachと言うのだが、「僕のペットはLoachなんだ」とアメリカ人に笑顔で伝えると、先方は頭のおかしげな人を見る目つきで私を見るのであった。
 「L」と「R」の発音は難しい。

在りし日の姿


<現実逃避その2: 絵を描く>
 どこで読んだか忘れたが、「芸術家の中で、最も長生きするのは画家である」らしい。ピカソもマティスもボナールも梅原も、そういえばみんな長命だ。私の好きなグランマ・モーゼスは、80歳でデビューし、101歳で天寿を全うした人である。

 心理学には詳しくないが、絵を描くという行為には、おそらく自己治療的な要素が含まれているのだろう。私にも思い当るフシがある。仕事や勉強に疲れたとき、何ともなしに絵を描いていると、時間が経つのを忘れてしまう。そしていつの間にか、風呂あがりのように爽快な気分になっている。

 バークレーに来てからは、京都に住む4歳の甥と文通をしている。私の絵が彼の感性にどう突き刺さるのか、それはまったく想像の埒外だが、ささやかな魂の交流をたのしんでいる。


甥 ⇒ 私 (1)


私 ⇒ 甥 (1)


甥 ⇒ 私 (2)


私 ⇒ 甥 (2)


甥 ⇒ 私 (3)


私 ⇒ 甥 (3)


<現実逃避その3: 散歩する>
 バークレーは散歩に適した土地である。と書くと、「散歩に適していない土地なんてあるのかよ」と反論する向きがあるかもしれない。しかしたとえば、サハラ砂漠や南極大陸で散歩をするのは難しい。ヨハネスブルグやサンペドロスーラで散歩をするのも、かなり命がけの行動だ。
 好きなときに散歩できること。それはやはり幸運なことなのだ。

 散歩にも流儀がある。私の好みは、まったくの無目的な散歩だ。何も持たず、何も考えず、次の角をどちらに曲がるかすら決めず、風の流れに気持ちを委ねるのがいい。

 散歩は、小さな発見に満ちている。

「道端に落ちてる犬のウンコが、日本のそれより黒くて固めのものが多い気がする。肉食のせいかな」

「路上駐車している車に『2,400ドル』とか値札を貼ってそのまま売ってるのって、ラディカルでいいよな」

「『スーパーマリオブラザーズ』とか、『ロックマン』とか、ファミコン系のTシャツを着た人をときどき見かけるけど、一周回ってここではお洒落なんだろうか。そしたら、『カラテカ』Tシャツとか、『ポートピア連続殺人事件』Tシャツとか、『頭脳戦艦ガル』Tシャツとか、『いっき』Tシャツとか、『たけしの挑戦状』Tシャツとかも、そのうち出てくるのかな」

「街中で奇声をあげたり奇矯なふるまいをする輩がいるけれど、周りに人がいなくなると途端に静かになる。つまりあれは狂人のふりをしているだけなんだな」

「迷子になった犬猫の『探しています』貼り紙をよく見るけど、たまに『見つかりました。ありがとう』貼り紙もあるのは、なんか律儀でいいな」

「チラシ配りの人はいるのに、ティッシュ配りの人って見かけないよな。これ、日本から輸出したらウケるかもな」

「『世界人類が平和になりますように』とか、『イエスは復活する』とか、ああいう類の宗教広告もこちらではあまり見かけないな。あれは日本独自の文化なのかな」

 こうして書き出してみると、私は花鳥風月よりも人間(あるいは人間の手によるもの)を観察しがちであるようだ。しかしそうした傾向も、いずれは変わることだろう。
 自身が変われば、見方も変わる。散歩の妙味がそこにある。




 余談その3。人間観察といえば、私の古い友人のNくんは、JR山手線に何周も、ときに一日中座り続け、乗客の様子を観察するのを趣味としていた。彼は帯広畜産大学と東京学芸大学と防衛大学校を受験し、すべてに合格したが、すべてを放り投げ、二浪の後に某私立大学に入学した。世の中にはいろいろな人がいるものである。


赤が「観光客」、青が「地元民」、黄色が「不明」というカテゴリで色分けされたベイエリアの地図。なるほどUCバークレー周辺ではスーツケースを引きずっている人をよく見る一方、オークランドでそういう人はまず見ない。ゴールデンゲートブリッジやアルカトラズ島が観光客だらけというのも納得である。そして私が以前紹介したエンジェル島は、地元民にも観光客にもまったく人気がないようだ・・・。
(出所:Eric Fischer 「Locals and Tourists」, 註釈は筆者加工)


<現実逃避その4: 食べる>
 工夫をすれば、めしを食べるのも、現実逃避のひとつになる。
 何も特別な料理を食べようというわけではない。吉野家の牛鮭定食だって、織田信長の時代には超豪華料理だったろう。そこで、信長の気まぐれで晩餐への同席を許された足軽になったつもりで食べれば、牛鮭定食は夢の御馳走に一変する。

 タイ料理店に出かけたときには、タイの国王(プミポン・アドゥンヤデート国王陛下)になったつもりで、厳かに味わう。カップラーメンだって、現代にタイムスリップした水呑み百姓の気持ちで食べれば、おいしさも倍増だ。「まんが道」風に表現すると、「ンマーイ!」となる。

 「空腹」は最大の調味料であると人は言う。まったくそのとおりである。
 そしてその次にくる調味料があるとしたら、それは「想像力」だと私は思う。


出所: 藤子不二雄A 「まんが道」


<現実逃避その5: 寝る>
 私が幼かった頃、母はよく「寝るのがたのしい。朝から晩までずっと寝ていたい」とうそぶいていた。子どもごころに、「こういう大人にはなりたくないな」と思ったのを覚えている。
 それがどうだろう。私はいま、往年の母と同じ信条を抱いている。どころか、日本にシエスタの文化を導入すべきと真剣に考えているし、帰国後にはテンピュール社の無重力睡眠ベッド「Zero-G 500」(294,000円)の購入を検討しているほどである。

 私は寝つきが良い方だ。眠れない日もたまにはあるが、それは大抵、次の日に愉快なイベントがあるときだ。要するに私の精神は小学生レベルなのである。
 入眠のコツは、何も考えないことだ。何も考えないのが難しいときは、日常から離れたものに心を傾ける。光がまったく射さない海の底に住む深海魚。宇宙に何億年も漂うヘリウム原子。目を閉じて穏やかな想像に身を任せば、重力を失うのは時間の問題だ。

 泥のように熟睡するのは最高だが、眠りの浅瀬で夢に浸かるのも捨てがたい。大学時代の一時期、私は夢を見ることに熱中していた。レム睡眠が終わるタイミングに合わせて目覚ましをかけ、一晩に5つも6つも夢をむさぼる。すると不思議なことに、最後の方はほとんどいつも悪夢(例: 学業不振、留年、退学)になるのであった。これは精神的に厳しいものがあり、しばらくしてこの趣味(?)はやめにした。やめてよかったといまでは思う。

 当時身につけた特技に、「小説を読みながら寝ると、その続きが夢の中で展開される」というものがある。成功率は約6割。夢の内容は小説の本筋とは違っていて、たとえば「アンナ・カレーニナ」が探偵小説になったり、「魔の山」が山岳小説になったりする。まあ無茶苦茶ですね。でも夢の中では整合性という概念は必要ない。これはこれでたのしかった。




 本稿の締めとして、「夢」つながりで、私の十余年来の座右の銘を紹介したい。

 うつし世はゆめ
 よるの夢こそまこと
 (江戸川 乱歩)

 乱歩文学の怪しい魅力を凝縮した名句であり、私の心に光を灯してくれた言葉だ。
 現世は夢、夜の夢こそ真。いま失意の底に沈んでいる人に、この言葉を贈りたい。



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